水鏡文庫

Twitter→@Mizukagami100

誕生

 

生まれたことを祝われるのは、なんだか虚しかった。それに対して、なんの感情さえもっておらず、感情がうごかされることもなかったのだ。ぼくは、生まれたくなかったから。でも、生きてきたことを祝ってくれるひとびとに出会い、ぼくは誕生日が好きになった。きみが、ぼくのことをすきでいてくれるきみが、そう言ってくれるのならば、生まれてきたのも、悪くはなかったから。それでも、ぼくが生まれていなかったならば、きみはぼくじゃないひとをすきになって、どうにか世界は輪っていたのだろうけれど、ぼくは生きてきてよかったんだ。

 

生まれることがすごいかは、ぼくにはわかりかねます。けれども、生きてきたこと、きみが、こうして生きてきてくれたことは、まぎれもなく、すごいことだとおもっています。

 

ぼくがいなかったら、なんてそんなことしゃらくせえってわらえたらどんなによかったか、ぼくは生きているかぎり、ぼくがいなかったらっていう仮定事項をさ、思考せずにはいられないんだな。ぼくがいなかったら、でも。なんかやだな。ぼくが、いなかったら。ぼくが、やだな。ふふふ。

 

生きてるほうがしあわせなんて、誰も決めつけることできないでしょ、血の繋がりが何よりも勝るってつまんないことを、決めたのはいったい誰なのかしら。それどおりに生きていないきみが、線路をあたらしくつくって、そのうえを歩いてるきみが、愛おしくて、正しいなんてどこにもなくて、それでよくて、ぼくもそうなりたかった。

 

それでも、あいしている。

 

きみは、どうしていますか。いや、生きてるだけで、いいんだけどさ。ぼくは、4がつから銀行ではたらくことが、決まっています。両親の期待どおりの、線路を歩いてきました。ぼくが、どうしたらいいのか、ぜんぜんわからないから、線路をひたすら歩いて、転んでも、脱線しても、それでも、歩いてやってきたのが、このみちでした。大好きだったヴァイオリンも、特に才能がなかったから、辞めました。ちょっとだけ自信があった茶道も、親の意向でサークルには入れませんでした。ぼくは、この人生に、不安はあれど、結果として不満はとくにありません。でも、たまに、考えるのです、ぼくがぼくの気持ちを大切に生きてきてみたら、どうなっていたのだろうって、考えるのです。でも、やりたくないこともやらなくてはなりません。それが、求められている、社会的なぼくだからです。社会に染まりたくないぼくも、染まりたくないと泣いていたぼくも、もう、社会というデカいブラックホールに飲み込まれてしまったのかも、しれません。

 

それでも、頭のリボンバレッタは、色を黒にしてでもつけていたいし、くるくるに巻いたこげ茶色の髪の毛も、つやつやにした爪も、譲りたくないものたちが、ぼくにはあって、だからそのためにたたかうのです。

 

3月19日に、ぼくは22さいになります。きみは、いつ生まれたのかしら。生きていてくれてありがとう。とても、うれしいから、そのときはお祝いさせてください。

 

18さいになったときに、わたしは、今年にぜったい死のうとおもっていました。でも、知らんうちに19さいになってしまって、ああもういいや、20さいまでに死のうと先延ばしにして、先延ばしにしたら、22さいになっていて、せっせとロープを結んでも、左手首のしろい傷跡も、ちまちま貯めてきた眠剤もぜんぶ、わたしだってそういえるようになったから、もう死なないよ。人間いつか死ぬけど。それまで、生きていってやろうじゃないか。

 

人生に魔法なんてねえ、それでも、魔法みたいに素敵なことはあるかもしれないし、ないかもしれないし、作れるかもしれないし、作れないかもしれないし、そんなんわかんねえけど、ぼくはたぶん、生まれてきといてよかったんだろうか?そんなん、分からないし、生まれなきゃよかったなんて、数え切れないくらいおもっているけど、それでも、今日くらいはいいよね、ぼくは生まれてきても、よかったんだよね。

 

きみを、きっとあいしている。