水鏡文庫

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可哀想

 

通勤ラッシュの人混みに揉まれながらみんな死ねとか考えてそのみんなにはもちろん自分も含まれているわけだけれども殺意があらゆる方向に向きまくっていても結局なんも変わらなくてささいな変化さえ全部自分のせいだとしか思えなくなるとかいう最低最悪のループにハマっている。

 

あなたが思っているよりも、ぼくはできた人間ではない。ぼくは、けっこうどうでもいい人間だし、この先のこともあんまり考えていない。親孝行だって、別にしようとか思っていないけど、親孝行するそぶりや発言だけでも親は勝手に喜んでるから、そのままほんとのぼくの気持ちを知らずに生きていってくれたらそれでいい。ぼくは、いまは幸せでありたいけど、この先ずっと幸せでいようとも思っていない。

 

生きてることがたまにどうしようもなくいやになるときがある。いなかったら、こんないやな感情とかつらい気持ちとかそんなのなくてよかったし、いなくなれないならせめて、普通のひとみたいな生活ができる身体と精神が欲しかった。羨ましくて仕方なくなる。病院に毎月毎月いかなくて良くて、山ほどの薬を毎日毎日飲まなくてもよくて、たまに凹むくらいで、眠ったら次の日は元気に会社に行けて、それが羨ましい。私もそうなりたかった。

 

病気を理由に様々なことから逃げているんだね、という友人の言葉が刺さって抜けない。その後なんて返したかも覚えていない。何も覚えていない。その言葉だけがひたすらフラッシュバックして、息が吸えなくなる。彼女は強かった。たしかに、私は病気を理由に様々なことから逃げている。自分を庇っている。でも、事実として病気が原因で入院して、手術して、薬を飲んで、彼女とは違う経験をしている。彼女は私にひとり暮らしや海外留学をすすめたけど、私は医者の指示からどちらも出来ない。多分、彼女にとって私のこういう事実が、言い訳にしか聞こえなかったのだろう。

 

ぼくはときたま、ぼくのぼくだけの「渚カヲル」が欲しくなるときがある。そもそも「渚カヲル」ははじめからぼくだけのものだ。「渚カヲル」はぼくを否定しない。「渚カヲル」はぼくを嫌わない。「渚カヲル」はぼくを好きだと言ってくれる。「渚カヲル」はぼくを肯定してくれる。「渚カヲル」はぼくを叱らない。「渚カヲル」はぼくを怒らない。でも、つまらない。他者なのに、ただひたすらぼくの話を聞いている。「渚カヲル」がどんな人物なのか、よく分からない。「渚カヲル」とぼくの境界があいまいになって溶けてしまう。「渚カヲル」と友人や恋人にはなれない。なぜなら、「渚カヲル」は他者のかたちをした、ぼく自身だから。

 

勝手に気持ちよくなってんじゃねえよ、可哀想って思えるお前自身が好きなんだろ、ぼくをオカズにシコってんじゃねえ!ぼくは可哀想じゃない、ぼくのこと可哀想って思っていいのは世界の中でぼくだけだし、お前に何がわかるんだ?舐められるのは嫌いだし、見下されるのも惨めだ。惨めがさらに惨めになるから、その目でぼくを見るな。惨めだ、差し伸べられたその手も振り払って逃げたら、誰もぼくを見なくなった。まるでいないかのように、まるで私はとうめいになってしまったかのように。それは、それは嫌だ、ぼくを愛して、だれか、誰でもいいから私に価値があるんだって思わせて、そこのおっさん、昔みたいに私をオカズにして、可哀想って頭を撫でてくれ、ねえ、だれか。

 

ずっと周囲から “ 雰囲気が ” 似ているねって言われていたひとつ歳上の職場の先輩が結婚した。同じ大学を出ているから大学の先輩でもあって、キャビンアテンダントの内定を蹴ってまで、うちの会社に就職したという憧れの先輩だった。私は、その先輩が異動する代わりに今の部署に配属になって、今でも間違われて先輩の名前で呼ばれてしまうほどに、先輩は今の部署で重宝がられていた。でも、私は先輩にはなれない。先輩のようにスタイルもよくなく、可愛らしいお人形さんみたいな顔も持っていないし、電話や依頼部の対応だって上手くない。明るく周囲をまとめる力も、面白くないひとの話をさも楽しそうに聞く力も、なにもかも私がのどから手が出るほどに、欲しくて、欲しくて、手に入らなかったような、きらきらしたものを、ぜんぶ持っているようなひとだった。マイナスな感情を一切表に出さない、人間のプロフェッショナルだった。人間何年目なんだろう、っていうくらい、ひとつ上とはとても思えない、素敵な女性だった。先輩のような社会人になりたいと思いつつ、ぜったいになれないことがうすうす分かりはじめていた。先輩の結婚という出来事で、私は先輩のような人間にぜったいになれないという事実をいやでも受け止めざるを得なくなった。先輩のような社会人、いや、人間になれたなら人生もっと楽しかっただろうなとか、先輩のようなしあわせな人生をちょっとでも分けてほしかったなとか、もちろん先輩にだってつらいこといやなことはあるだろうけれど、私が先輩のような素敵な女性だったなら、そんなこと乗り越えていけるくらいの自己肯定感はあるだろうな、とか。先輩の結婚を素直にお祝い出来ない自分のことも、すごく嫌いで、なにもかも嫌いだった。結婚おめでとうございます、というたったひとことが、喉につかえて上手く出てこない。真っ白い便器に向き合い胃液を吐きながら、どうして私はこんなに惨めなんだろうかと、生まれてきたことを後悔した。羨望と憧憬がぐちゃぐちゃになって、私の首を絞める。私は、先輩にはなれなかった。周囲から期待されているような、先輩の後釜にはなれなかった。そんなあたりまえの事実が、どうしようもなくつらくて、涙が止まらなくなって、その日は仕事ができませんでした。

 

私はなぜだか自分はこんなところで終われないんだという謎の自信がある。いつも努力しているのが伝わってくるところが好きですって言ってくれた後輩も、あなたらしさを大切にしてくださいって言ってくれた主治医も、ひゃくちゃん大好きって言ってくれたともだちも、みんな私に言ってくれた。先輩にはなれなかった私のことを、好きだと言ってくれた。私が先輩になれないように、先輩もまた、私にはなれない。何度も壊して直して作り上げてきた私のこの惨めな人生を、私以外の誰も生きることができない。だから、この惨めさはぜんぶ私のものだ。誰にも渡さない。いつかこの塊を肯定できるときがきたら、きっと。私は、可哀想じゃないよって、胸を張って言えるはずだ。

 

生きていてくれてありがとう。可哀想だけど、可哀想で片付けたらもったいないこともある。たぶん。わからないけれど。それがわかるときがくるまでは、きみも、一緒に生きていてくれませんか。