水鏡文庫

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4月の青

 

 4月、絶望である。絶望といっても、まっくらくらのそんな絶望じゃなくて。ふわふわってしたもっとあかるい絶望。絶望は、べつにまっくらなだけじゃないなあって気がついた。大学に入って3年目になって、もう3回目なのに、新学期はいつもこんなあかるい絶望に包まれている。慣れない。私はもう、私のペースで歩くから、まわりのことは気にしてないふりして大学生活を送ってきたけど、そんなのふりに過ぎなくて、やっぱりすごく神経質になっている。私はなんにもしていないなあって、すごくすごく不安になって、馬鹿みたいに爪を齧ってる。

 

この前の木曜日に、今学期はじめてのゼミがあって、10人くらいいて、私はそのゼミの教授が大好きで仕方なくて、それで入ったんだけど、そのときの自己紹介と顔合わせで、私って何でもないことを言い訳にして何にもしていなかったのかもって、焦った。でも、私は私にしかできないことがあるんだって、信じてるから、今はもう前向き。だけど、そのときは不安になって、うまくやっていける気もしなくて、議論も先輩や教授としてた1年生のころがいちばん楽しくて、でもゼミには同学年しかいなくて、喉が詰まった。

 

みんな普通に話してるときはみんなが違ってて面白かったのに、自己紹介になった途端に、みんなおんなじ教職とか就職とか就活とか教採とかボランティアとか、そんな話ばっかりになっちゃって、なんかこわかった。リアルすぎたのかな、吐きそうなほどつまんなくて。誤解を招く表現をしてしまったけど、まわりはみんな生き生きしていて、生きていこうとしていて、それがなんか私には気持ち悪くて、でも、まわりのみんなは全然絶対悪くないし、むしろ私なんかより何倍もがんばってて、あかるくて、それで絶望した。あかるい絶望ってそんなかんじ。春ってみんな生きようとしてるから、私はそれ見て勝手にめっちゃ気持ち悪くなって、私ってほんとに馬鹿だなって思う。ちなみに私は、ほんとになーんにも考えてないし、嘘もつけないから、就活いまは考えてないです。フランツ・カフカと教授が大好きです。教育哲学専門で研究したいです。文学と演劇とヴァイオリンが好きです。って、それだけ話した。みんなの言葉がまったく違う言語圏での言葉みたいにかんじて、私だけがなにもできてなくて、どうしようって思ってた。不安が襲ってきて、私でもとある資格なら、今年毎日大学行ったら取れるよって友達にいわれたから、今年は毎日大学に行くよ。

 

どうでもいいけど、その資格とるための必修の講義で、クソフェミニズムはもういらない、って言った教授、なんか知らんけど面白かったな。フェミニズムに、クソがついて、吐き捨てるようにクソって言って、そのあとフェミニズムって言ってた。いまは、ポストフェミニズムの時代らしいよ。

 

好きだから心理学と哲学をたくさん取って、資格の必修も入れて、でもなんだか人間みたいになれるかもしれないし、ちょっと期待しておくから、だからあかるい絶望。キルケゴール死に至る病を買った。憧れの岩波文庫の青。哲学とかそういうジャンルの本は、青い色がついてる。普通の文学は赤い。あとは、そのゼミで使うほかの岩波文庫の青。それを何冊か買った。

 

自分はどうしたいのかわからないし、将来自分が生きてる予感もしないし、終わらない上りのエスカレーターに乗ってるイメージが湧いてくる。いままで何度もそのエスカレーターから飛び降りようとしたけど、できずにここまで上って来ちゃったから、いまさら飛び降りたくない。だけど、先はなんも見えなくて、それで不安。

 

ひとりでいたいときってあるけど、そばにいても全然ひとりでいるときとおんなじ精神でいられるような、そんなひとがいる。ひとりでいようとしていても、そのひとがいたら、そばにいるほうを選んじゃう、そんなかんじのだいすきなひと。大学にいるのはたったひとり。先輩。大学で講義一緒に受けようお昼食べようって声かけられる、所謂イツメンっていうの、一応私にもいるんだ。その子たち4にんはみんないい子で大好きだよ。だけど、逃げちゃうこともある。大好きなのに、ごめんね。その子たちと、いると楽しいはずなのに、疲れちゃうから、先輩に会うために学生相談室に行って、いつものソファにふたりで座って、それだけ。

 

たまに、こうやってブログ更新してみようかなっていうの、れみちゃんの真似。楽しかった。1週間のまとめ、こうして書いていきたい。続くかは、知らんけど。

 

そろそろ寝たい。

 

今度、私が人間を救済しようとしていることが如何に愚かな考えだったか、を書きたいんだ。今度が、いつになるかはわからない。明日かもしれないし。

 

小説家になりたい。

 

『キラキラ☆プリキュアアラモード』第29話 自己の影をみるということ

※この文章には『キラキラ☆プリキュアアラモード』第29話のネタバレおよび画像が含まれています。それらが苦手なかたには閲覧を推奨しません。

 

私は『キラキラ☆プリキュアアラモード』という作品に対して、多大なる期待を寄せていた(いる)と言ってもいいと思っています。ここではその話はしませんが、第25話を視聴してからというもの、正直、私はこの作品を追い続ける気力を失ってしまっていたのです。ですが、第29話を視聴して、ほんの少しではありますが、心に立ち込めていた暗雲が晴れていくような気持ちになれたので、その話をしたいと思います。

 

プリキュアは、子どもたちの憧憬の対象でもありますが、そのなかに自己の影を見出す子どももいるということを、決して忘れてはならないと思っています。それは共感と呼ばれ、ときに私たちを強くしてくれるものになり得ます。ちなみに、ここでは便宜上、子どもたちと表記しましたが、プリキュアを視聴しているすべての者に対して言えることだと思っています。なぜなら私も、そのひとりであるからです。また、誰も他者を外見的で社会的な判断のみを材料に、まったく子どもではないと定義づけることはできないと思っているからです。私は、いわば悪役側のビブリーという少女に自己の影を見ています。たしかに、私はそこにいたのです。これからの彼女の行く末は、私の不安の根源です。

 

第29話で、琴爪ゆかりが鏡(自己の姿)と向き合う描写がなされます。自己の心のなかの深いところに入りこんだ彼女は幼少期の自己の影に出会うのです。幼少期の影と対面した彼女の背後には、多くの彼女の姿が鏡に映っています。これらは彼女の栄光でもありますが、同時に呪縛のようにもみえます。これは心理学的な話ですが、さまざまな人格をつけはずしのきく仮面のように場面に適応させているうちに自己を統合できなくなるということはよくあるケースです。

 

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このカットに対してひどく共感しましたし、私の心的世界をビジュアル化したのならば、まさしくこのような構図になるだろうと思いました。私が、精神的にまいっているときには、たいてい幼少期の自己の影と対話します。幼少期の自己の影は、幾度も幾度も現れて、いまの私を苦しめます。

 

ですが、幼少期の自己の影を受け容れることで姿はだんだんと薄くなり、その影は私の心底で安らかに眠ることが許されるのです。受け容れることは、認めることに等しいとさえ思います。がんばっていたんだね、えらかったね、あなたのことが大好きだよ、私はそう言ってほしかったのです。幼少期の私は、たったその言葉を誰かにかけてほしかった。それだけでした。

 

過去の出来事は変えられないけれど、幼少期の自己と対話し承認することで、昇華することならできると思っています。それが顕著なのが、この第29話の琴爪ゆかりです。

 

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過去の自己の影を受け容れて、影を抱きしめながら好きだと言葉をかけたことで、幼少期の彼女の影は安らかに眠ることが出来たのだと思いました。そして、その幼少期の彼女の影は、新たに彼女の力に加わって、さらに彼女を強くしてくれたのだとも思いました。

 

第29話で、行くあてのないぼんやりとした寂寞を抱いていた子どもたちが、共感によってすこしでも救済されていたら、うれしいと思うばかりです。

 

ですが、この文章が、第29話のみを考えたときのものにすぎないということを、知っておいてほしいと思っています。なぜなら、話が続いている以上、第25話はなかったものにはできないのですし、第25話の琴爪ゆかりもまた琴爪ゆかり自身であるからです。第29話の展開のみをみた場合に、私は救済される子どもたちの可能性を見出したということです。第25話の放送まで彼女の存在に救済されていた者が、突然に突き放されてしまったことは事実です。それはすごく悲しいことです。第25話から、一切視聴する気力を亡くしてしまっていた私もまた、強く美しい彼女に対してぼんやりとではありますが、憧憬の念を抱いていたのだと思います。散らばった感情の破片をかき集めて拾い上げるように書いた文章でした。

はじめて同人誌を買った話

「漫画を読むと馬鹿になる!あなたは馬鹿じゃないんだから、馬鹿がうつるわ、返していらっしゃい!」

 

友だちから借りた少女漫画雑誌を抱えている小学生の私に、母親が言い放った、いまも忘れられない言葉である。

ママに嫌われたくない。ママが好きないい子になりたい。そう思っていた私は、母親が否定したものを、嫌いになった。

弱くて小さい、病気を持って生まれた私を、外界に触れさせないように、幼稚園にも通わなかった。

 

それから私も成長して、母親自身の手で私の見る世界をすべてコントロールできなくなってくると、私の好きなものを鼻で笑ってあしらうようになった。私は、好きなものをひとに話せなくなった。気がつくと、私の居場所はどこにもなくなっていた。

 

小学生の頃から続いていた不眠と過呼吸はさらに酷くなり、精神を病んだ。

 

それでも、好きなものは諦めたくはなかった。読書、茶道、書道、音楽、そしてアニメ。

心の支えだった。

精神状態が悪化して、何もできないときもあったけれど、何かできそうなときには決まってこれらを支えにしていた。

 

そんな私も、もう大学生である。

決められたアルバイトなら許されて、クレジットカードをつくった。自分で稼いだお金で、好きなものを買って、私はちいさな自立を手に入れた。そして、今年5月、大好きな『ユリ熊嵐』のキャラクターデザイナーさんの同人誌を通販で一冊買った。それは、何故だか、私のなかではおおきな自立になった。好きは恥ずかしいものでもないんだ。好きなものを好きでいいんだ、と感動した。ただただその一冊を購入したという事実が、私を自立させたのだろうか、過去の自分との決別となった。

 

うれしかった。

 

でも、見つかるかもしれないし、捨てられるかもしれないし、罵られるかもしれない。見つかったら、確実にそうなるだろう。

 

だけど、私は私の感情を優先して行動した。

いままでは、私は周囲の目を気にして何ひとつ私の感情を大切にしたことはなかった。ほかのことに対してもすべてだ。自分を大切にすることは、自分で自分を生かしていくことなのだ。

 

とはいえ、いまでも闘っている。

自立には程遠い。

けれど、自分の感情を自分が大切にしてやらなかったらいったい誰がそれを処理できるのだろう。私は、この出来事をきっと忘れない。

誰も悪くないかもしれない、ということ

この世界には、しばしば善か悪かあるいは白か黒かというふたつの思想をもって語られることがあまりに多い。だからといって、私がそのように思考することを辞められるほどの聖人でもないわけで、むしろそのふたつに支配されがちな人間であるということは、十分に理解している。特に、精神的に参っているときには、そのような判断しかできなくなって、どちらかに分類しなくては落ち着かない。

 

最近、『レ・ミゼラブル』『ダンサー・イン・ザ・ダーク』など他にもさまざまな映画を観た。ここで話すのはこのふたつについてなので、その他はまたの機会に。割愛する。

 

ジャンバルジャンは貧困に喘いだ姉とこどもを助けるためにパンを盗んだため逮捕され、ジャヴェール警部は法に支配されて自殺し、エポニーヌは愛のために青年を庇い撃たれ、ガヴローシュは仲間のために撃たれる。

 

レ・ミゼラブル』も『ダンサー・イン・ザ・ダーク』も所謂「暗い」映画である。それでも私にとってこのふたつの映画は希望だった。私のなかに眠っていた、忘れかけていた概念をハッと思い出させてくれるような映画だった。

 

それは誰も何も悪くない、ということ。

私はなにか悪いもの、すなわちマイナスな感情を呼び覚ますようなものに出会ったとき、その中身を確認せずに判断を下した。「悪だから」という大きな主語を使って理由を語った。「どうして悪なのか」を考えようとしなかったのだ。

 

ダンサー・イン・ザ・ダーク』では、視力を失いつつあるセルマが貯めた息子のための手術費を、信頼していた警察官に盗られる。しかし、その警察官も、妻の浪費癖に苦しんでいた。妻はなぜ、浪費癖があるのか。それは描かれていないけれど、なにか苦しいことがあって、それを浪費で発散しているのかもしれない。

 

これらの映画は、本当にやるせない。

さまざまな人間が死ぬし、辛いことがたくさん起こる。どうしてなのか、それは誰も悪くないからかもしれないと思った。

 

特定の人間に憎悪を向けたとき、その肥大した憎悪が自分のことさえも殺してしまうことがある。それほどの憎悪を人間に向けたことがあるかはわからないが、私はそれほどの強い気持ちを向けている人間がいる。これは憎悪と簡単に括れるようなものではなくて、もっと複雑に絡み合った負の感情なのだが、同時にそれはどうしようもないものであることに気が付いたとき、その負の感情は次第に自らのほうへ向かい自らを傷付けていた。

 

表面で語られる「悪い」人間を「悪い」人間たらしめたものは何なのか。

 

不登校のケースひとつとっても、いじめられているから、勉強についていけないから、不良だから……それぞれのコンテクストはまったく異なる。不良と呼ばれる人間が、なんの意味もなく不良なわけではない。深夜にバイクのクラクションを大きすぎるほど鳴らすのは、彼らの行き場のない自己主張を体現する方法なのかもしれない。

 

念のため書き記しておくが、これは「罪を犯す」ことを庇っているわけでもないし、「仕方がない」とも思わない。けれど、いままで、白か黒かというふたつの思考に囚われていた私が、もしかするとこの世の中には、誰も悪くない悲しいことがたくさんあるのかもしれないと、ぼんやり思ったこと、考えるようになったことで、すこし楽になったという小さな記録のようなものである。

 

『ユーリ!!! on ICE』と出生家庭

 

先日『ユーリ!!! on ICE』についての記事【アニメ『ユーリ!!! on ICE』からみる「既存の枠組み」からの脱却 - 水鏡文庫】を執筆して、たくさんのRTや♡をいただき、本当に嬉しい限りです。ありがとうございます。

 

さて、今回は『ユーリ!!! on ICE』のキャラクターにスポットをあてて家族という呪縛、ユーリ・プリセツキー(15)と優子の心理的関係と距離について書いてみたい。先日の『ユーリ!!! on ICE』の記事で少々触れたが、筆者はある理由があって第3滑走のユーリ・プリセツキー(15)に異常なほど感情移入して私生活においても精神的に不調をきたした。そこで気になったのが、主人公である勝生勇利の憧れ西郡優子(人妻であり3人の娘を持つ)に対するユーリ・プリセツキー(15)の心理的変化だ。

 

その美貌でロシアの妖精と呼ばれているが、リンクから一歩降りればガラの悪いロシアンヤンキー。ヴィクトルと同門でありシニアデビューで世界一になると信じて疑わない野心家。フィギュアスケートで国からの援助を受けノービス時代から一家の大黒柱を勤める健気な一面もある。

(アニメ『ユーリ!!! on ICE』公式サイト「ユーリ・プリセツキー」の項より引用)

 

ユーリ・プリセツキーというキャラクターの紹介から見るに、家庭環境に何らかの問題を抱えていることが分かるだろう。8話現在で確認できたのは、彼が心を許し甘えられるのは祖父のみということだ。母親は彼のスケートを観に来られない、または観に来ない。

 

「じいちゃん、

また明日も一緒に練習来てくれる?

もっと上手に滑れるよ……

ママが来なくても僕、大丈夫だから……」

(第3滑走 幼少時代の回想シーンより)

 

本編で語られていないため、筆者の憶測だが、母親は病気で彼の練習に来ることができない可能性と、ネグレクトなど意図的に来ない可能性の2つが考えられる。

 

彼に与えられた課題であるアガペーはときに母性愛とも言い換えられる。見返りを求めない愛。つまり母親は本来子どもに対して見返りを求めるような愛を注ぐべきではないとも言えるのではないか。彼はアガペーを祖父から獲得することは出来ている。けれども、彼は幼くして家の大黒柱としてお金を稼がなくてはならないという透明な圧力のもとスケートをしてきた。好きだからスケートを自由にやらせてくれる勝生家との対比構造が出来上がっている。

 

幼い子どもが「良い子でなくてはならない」と思って生きるということは本当にせつない。本来「たとえ良い子になれなくても良い子でなくてもだいすき」と承認してくれる誰かが必要なのだ。子どもは本来、無条件で愛を受けるべき存在である。幾原邦彦のアニメ作品『輪るピングドラム』で多蕗桂樹というキャラクターの母親は彼を愛していたが、本当に愛していたのは彼ではなく彼の才能だった。ピアノが上手い彼を愛していただけで、彼自身を承認してくれる人間ではなかった。けれども彼は血縁関係には頼らない無条件の愛を注いでくれる少女 桃果に出会うことができる。それにより彼は救済されたのだ。(それにしても『輪るピングドラム』は素晴らしいアニメ作品なのでぜひ観てほしい、というか観ろ☆)

 

ユーリは勇利と異なり、スケートを好きという感情以前に「生きるため」にスケートをしているという印象を強く受ける。幼くして国の援助を受けながら、一家の大黒柱として生きる運命を背負った彼は勝たなくては家族を支えられない、生きられないという非常に大きくて透明な圧力に支配されて、身体ごと武器にしてまで勝とうとする。勝利に対して彼が異常なほどに貪欲なのはそのためだ。他のスケーターとはそこが大きく違う。

 

本来「たとえ良い子(=勝つ、お金を稼ぐ)でなくてもだいすき」と承認されて然るべきはずの子どもが、幼くしてそれを既知の事実として受け止めて行動しているということは、大変辛いことだ。

 

ユーリの祖父は確かに彼を可愛がっていて彼もそれを感じて懐いている。それは事実だ。けれども生きられなければ元も子もない。祖父だってユーリにお金を稼いで貰わなければならない立場にある人間だし、悲しいことに彼にその運命を背負わせている側の人間なのだ。

 

そんなユーリにとって、勝敗に関わらず彼を承認する優子という人間は非常に珍しかったのではないか。ノービス時代から「勝って家族を支えなくてはならない」と考え「生きるため」にスケートをしてきたのだ。優子はユーリがそこに存在するだけで鼻血を出して喜ぶし、応援する。彼が生きているという事実を承認している。その存在自体を承認しているのだ。ユーリの祖父が彼に注いでいるのは確かに愛である。だが、それは「生きていくため」には仕方がないのだが、ある意味での「条件付きの愛」でしかなかった。お金を稼いで「生きるため」に生命を燃やしながらスケートをしてきたユーリは、優子から与えられる「無条件の愛」にひどく珍しい不思議な感覚を抱きつつも、はじめて勝たなくても何故か喜んでくれる、存在を承認してくれる人間に出会い、優子に母性を見出したのではないだろうか。

 

(ユーリの自尊心や他人を寄せ付けないような行動は彼の才能に依るものでももちろんあるのだろうが、それだけではなくある意味で自分を護ろうとしている心理が働いているのかもしれない。事実、そういったケースはいくつもあるからだ。人間が発する言葉には自らに対する言い聞かせという可能性がある)

 

存在自体を承認された愛を既に獲得したうえで好きなスケートを続けている主人公 勇利と勝利してお金を稼ぎ家族を支え生きるためにスケートを続けているユーリは確かに極端なほど正反対だ。原作者が彼らに同じ名前を与えたことは意図的であろう。その他にも、彼らはお互いに自らの持っていないものを持っている。非常にわかりやすい対比構造だ。

 

人間を救済するのが、必ずしも出生家庭の人間とは限らない。むしろ、家庭という極めて狭い世界に閉じ込められることもある。本来、子どもには「たとえ良い子でなくてもだいすき」と承認してくれる存在が必要なのに、それを獲得できない子どもが世界中にたくさんいる。その子どもは無意識に承認を求めるようになる。必死に「だいすき」と褒めてもらうために「良い子」になろうとする。なんて辛いのだろう。そんな時には「良い子になんてならなくても生きていてくれるだけでだいすき」と払拭してくれる人間を出生家庭から脱出して見つけることができれば少しでも救済される。母性を注いでくれる人間が必ずしも血の繋がった家族ではないということを知っていてほしい。家族という呪縛に囚われていることもある。家族があかるくあたたかいものでなくてはならないと誰も定義することはできない。

 

私も母親からの「だいすき」が欲しくて「良い子」であり続けようと努力してきた。でも母親はいつまでたっても私を「だいすき」とは承認しない。筆者の弟も母親からの「だいすき」が欲しくて必死に「良い子」になる努力をしている。存在を認めてもらえない家庭なんて、地獄だ。存在を承認されたことのない子どもが、何も知らない幼いうちは「だいすき」のために頑張っていられるかもしれないが、じきに虚無感に襲われるだろう。私自身、ユーリは優子と出会うことができて本当によかったと思っている。

 

これからの物語の展開に更なる期待をこめてこのあたりで筆をおこうと思う。最後まで読んでくださいましてありがとうございました。出生家庭の呪縛から脱すること、親族の精神的殺害は決して悪ではない。私も願わくば知らない誰かの救世主になれたのなら幸せです。

 

 

 

『ユーリ!!! on ICE』からみる「既存の枠組み」からの脱却

 

2016年9月某日、私ははじめてこのアニメのディザーPVを目にした。元来フィギュアスケートの大ファンであり、作画オタク(なんて烏滸がましくて言えないただの趣味レベルです……)である筆者にとって大変な衝撃であった。「くそやばい、オシャレじゃん……」なこのアニメ、ただひとつ気になる点があったのだ。

 

所謂『腐向け』と呼ばれるような描写が多いということである。だが、筆者はさほど気にしなかった。なぜなら、男子フィギュアスケート界には同性愛者が多いという事実を既に知っていたからである。

 

「どうせ水曜日の夜は『文豪ストレイドッグス』で起きてるんだし、そのまま『ユーリ!!!』も観てみようかな」なんて軽い気持ちで観はじめたのが、この有様だ。

 

余談だが、筆者は第3滑走でユーリ・プリセツキー(15)の幼少時代の回想シーンやロシアに自ら帰るシーンで、精神状態が酷くなり、彼に異常なほど感情移入してしまっていた。それについては、私の過去の記事である【森鷗外『舞姫』の悲劇は豊太郎の母親によってもたらされた? 〜マトリサイドと青年期の心理学〜 - 水鏡文庫】から、なんとなく察していただきたい。

 

ユーリ!!! on ICE』と 愛

 

筆者は、『ユーリ!!!』をBLでないと否定したいという気持ちはさらさらない。むしろ、『ユーリ!!!』はBLだ!と声高らかに訴えていきたいと思っている。だが、『腐向け』や『腐媚び』という意見をみるとあまりの悲しみに、iPhoneが何台あっても足りないほどである。(こんなことを偉そうに語ってこそいるが、実は筆者自身が過去にこのアニメの描写に対して「やりすぎ」などと述べていたので、人のことを言えやしない)

 

そこで、『腐向け』と『BL』という両者間の極めて曖昧な定義について改めて考え直す必要があるのではないだろうか。

 

まず、『腐向け』や『百合』や『腐女子』という言葉は、二次創作物における公式でカップル描写のない男性または女性キャラクターをくっつけて楽しむという点で、ある意味で自嘲的であり、自虐的な意味を持って使われる場合が多い。(腐ィルターなどといった表現を使用することも、そのひとつであるといえるかもしれない……)どちらかといえば、ネガティヴな表現だと感じている。

だが、『BL』や『GL』という言葉は決してネガティヴなものではないはずだ。なぜなら、『BL』や『GL』という言葉自体には、『男性同士の愛』,『女性同士の愛』という意味しか含んでいないからである。

『腐向け』『百合』が苦手だということであるのならば、たんにそれは、公式では描写されていない男性または女性キャラクター同士をカップルにするという二次創作物が苦手だということになるのである。

二次創作物上で注意喚起を必要とする理由が、公式では描写されていないという点にあるのならば、公式では描写されていない男女キャラクターはどうなのだろう?

 

確かに、二次創作は非公式なものであるため、注意喚起を必要とするということは十分に理解できるが、それならば男女キャラクターであっても扱いは同じでしかるべきはずである。

 

ここでふたつ、

素晴らしい記事を紹介させていただきたい。

 

今期大人気アニメ ユーリ!!! on ICE で ヴィクトルと勇利がキスをしたことの意義 - inato備忘録

 

『ユーリ!!! on ICE』と「愛の再定義」 - 小夜倉庫

 

inato氏、長谷川さより氏はともに『ユーリ!!!』の愛について述べている。そして、私自身も自由な愛の形について述べるために、久しぶりにこのブログを更新することにした。

 

「BL要素があるなんて聞いてない」

 

このような意見をしばしば目にしたが、やはりこれは日本においてまだまだ同性愛が受け入れられていないという現実を端的に表したものであると感じた。いままでたくさんのスポーツを舞台にしたアニメや漫画において、男女の恋愛描写というものは普通にあった。それでも「男女の恋愛描写があるなんて聞いてない」とは誰も言わなかった。渋谷区が同性愛結婚を認めると発表したところで、やはり人々の考えはそう簡単に変わるものではないのだ。だけれども、考えを変えてほしいなどとは思っていない。否定しないでほしい、それだけだと思う。

 

「透明な枠組み」からの脱却

 

ユーリ!!! on ICE』第7滑走において、筆者のなかで非常に興味深い展開があった。いや、筆者だけではない。第7滑走を視聴していたであろう全世界の人間が過呼吸を起こし、あの世行きになるほどの大惨事であった。

 

……キスした?

 

本当にこれである。でも、私はここまで観ていてもうすでに勇利の成長に号泣していたので、一瞬 息が止まった。第7滑走は大変話題となり、しばらくの間Twitterのトレンドに居座り続けていた。

 

(キスをしていないという解釈も、もちろんあると思うのですが、ここではキスをしたこと、それを描写した制作側の意図を図ろうとしたものですので、解釈が異なる、または受け入れられられないという場合の閲覧を推奨いたしません)

 

愛の定義は非常に曖昧であるが、曖昧であるからこその“よさ”も存在する。

勇利は作中で「ぼくの愛」について語る。勇利は「ぼくの愛」を「自分から繋ぎとめたいと思った」と定義している。「地元に対する微妙な気持ち」もひっくるめて「ぼくの愛」として定義している。ユーリは作中で「無償の愛」を「じいちゃん」に対する気持ちだと定義している。

それが「愛」の“よさ”だ。

 

第7滑走での「キス」は「自由な愛の表現」の象徴であると考える。勇利の素晴らしい演技に対するヴィクトルなりの最上級の愛の表現であり、同時にそれは非常に衝動的なものである。自由に生きている、自由に表現している。それが、あの形で表されたのではないか。

 

また、『ユーリ!!!』は非常にやさしいアヴァンギャルドな世界だ。だれも、彼らの「愛の定義」を否定しない。「愛の定義」を否定するということは同時に「その人間自身」を否定することになりかねないと私は思う。氷上の芸術でもある、フィギュアスケートという競技は自由な「愛の定義」を表現するのに相応しい。

 

それにしても、通常のアニメ作品で同性同士のキスシーンを描写するという行為は非常に革命的なのではないかとさえ思う。現実の世界には男女の愛も男同士の愛も女同士の愛も、もちろんそれ以外の愛だって、たくさん散らばっているわけだし、本来は誰もそれを定義する権利はないはずだ。それを既存の「透明な枠組み」に縛られずに自由に表現したという点で『ユーリ!!!』は未来のアニメ作品における描写にも、大きな影響を与えるものとなるのではなかろうかと期待したい。

 

受け容れるということ

 

少し話は逸れるかもしれないが、アヴァンギャルドでやさしい世界という点で、共通していると個人的に感じたアニメ作品についてふたつほど言及したいと思う。『ユリ熊嵐』については、既に長谷川さより氏の記事で紹介されているため、割愛する。

 

 

これも言わずもがな大人気なシリーズである。筆者の友人が好きなので、それをきっかけに興味を持ち、毎週 楽しく視聴している。刀剣を男士に擬人化したという大変斬新なアイデアで、日本史などに興味を持つきっかけになりそうな良い作品である。私がここで取り上げたいのは、様々なキャラクターの「個性」が極めて普通のものとして受け容れられているという点である。少女のような容貌をしたキャラクターもいるし、女形の設定のキャラクターもいる。(それらの設定はその刀剣の持ち主であった人物の趣味だとかそれらをどう扱っていたかなどに拠るものである)だが、誰もそれを否定したり、変だと言ったりはしない。受け容れているのだ。皆それぞれ「自らの定義」なるものを所有していて、それを受け容れているからこそ生まれる、ある意味でこれも暖かな愛に包まれた作品だと考えている。

 

 

筆者が大好きで、そしてこの先も大切にしていきたい作品のひとつである。『ユリ熊嵐』の幾原邦彦が関わった作品だ。彼は非常に革命的で前衛的な演出で注目を集めているアニメーターであり、『美少女戦士セーラームーン』でもキラリと光る個性が眩しい。まず、この作品は「女の子は王子様の助けを待つ弱い存在」だという「既存の透明な枠組み」からの脱却に成功している。(近年のディズニー作品でも現れているが、ここでは触れないものとする)これは、幾原邦彦作品全体に流れている気もするので、『セーラームーン』が特別だというわけではないのだが。(アニメ『少女革命ウテナ』などの作品にも大いに現れている)ここでやはり述べたいのは、セーラーウラヌスセーラーネプチューンの関係性である。ーラーウラヌスはセーラーネプチューンと「恋人」なのかと尋ねられたとき「それ以上」だという答えを出した。その他の描写にも現れているように、彼らの「愛の定義」には「既存の透明な枠組み」には決して縛られない自由さがある。宇宙のように深く、そして誰にもわからない彼らなりの「愛の定義」がそこに確かに存在しているのだ。

 

おわりに

 

この文章を通して、私が伝えたかったことはさほど大したことでもない。ただ、『ユーリ!!!』第7滑走における男性同士のキスシーンが与えた影響について考えているうちに、「愛」とはもっと自由であってもよいのではないかと思ったのみである。「愛」は私たち人間の生きる力となり、私たちを救済する。その「愛」をほかの人間が否定することはできない。例え、その「愛」や「人生」が「既存の透明な枠組み」から外れていたとしても、その人間を生かす「愛」はただひとつの「愛」のみなのだから。

 

ユーリ!!! on ICE』は「既存の透明な枠組み」には決して縛られない「愛」の描き方をしている。男女の愛情を観て感動するように、男性同士の愛情や女性同士の愛情を描いた作品だってあってもいいのではないか。それはみんな彼らの「愛」であり生きていくために必要なものなのではないかな、と強く感じる。ほんとうはみんな同じ「愛」であるのに、それを『BL』や『GL』というジャンルにわけた挙句、遠ざけるのはあまりに乱暴で勿体ない。私自身、深夜アニメなどに触れはじめたのは2,3年前からで日は浅いのだが「愛」について考えるきっかけとなったし彼らの周りを輪るさまざまな「愛」にひどく感動したりもした。

 

勇利が生きていくために必要な「愛」、ユーリが生きていくために必要な「愛」、ヴィクトルが生きていくために必要な「愛」はすべて違う「定義」のもとに成立している。それを氷上でいかにうまく晶華させるか。つまり彼らにとっての「生命」なのではないだろうか。

 

長くなりましたが、最後まで読んでいただきまして本当にありがとうございました。あくまでこれは個人の意見にも満たない戯言ですが、何か少しでも感じてくださったのならば、この上なき幸せです。私は持病など生まれ持ったコンテクストが周囲とは違っていて、幼いころから私はそれを恥ずべきことだと考えて、ネガティヴに捉えていました。その結果、小学校から症状は出ていましたが、青年期になり、精神疾患と診断されました。現在も、持病と精神疾患と戦いながら、私なりの「愛の定義」つまり「生きる意味」を少しでもいいから見つけようともがいています。

 

ここまで読んでいただき、本当にありがとうございました。皆さんの素敵な「愛の定義」がたくさん見つかりますように。

 

新しい記事も書きました、ユーリ・プリセツキーについてです。こちらもぜひ。

アニメ『ユーリ!!! on ICE』と出生家庭 - 水鏡文庫

 

(2016年 11月20日 投稿)

 

 

輪廻の果てに飛び降りる

タイトルは、スピッツの「青い車」からいただきました。スピッツが昔からだいすきなのですが、なかなか意味深な歌詞が多いので、たくさんの解釈がたくさんの方によってなされています。

君の青い車で海に行こう
おいてきた何かを見に行こう
もう何も恐れないよ Oh…
そして輪廻の果てに飛び降りよう
終わりなき夢に落ちて行こう
今 変わっていくよ
(草野正宗 作詞)

これは心中説があります。
もともと、草野マサムネさんはセックスや死をテーマに曲を書くので、多くの曲にそれらのメタファーが散りばめられています。

あとは、Mr.Childrenもだいすきです。
最近のだと「斜陽」と「足音〜Be strong 」が好きです。あとは「innocent world」と「終わりなき旅」がやっぱりだいすき。

さて。好きな音楽の話はこんなところで。
今日のテーマは哲学のこと。
哲学の講義が、とても興味深いのです!
「わたし」という存在や魂について、文学をテキストにして読みとる講義です。
とくに、志賀直哉が「わたし」について述べた文章が印象的でした。

「私はナイルの水の一滴に過ぎないが、それは後にも前にもこの私だけで、私という者は現在の私だけなのである」

そして文章の結びには
「直哉」と自らの名前を書いて
たったひとりの私をアピールしている。

けれど、このあと晩年にこの文章を改変しているのです。

「私は依然として大河の一滴に過ぎない。それで差し支えないのだ」

私という存在を示す「直哉」という名前はなくなっています。
私なんて結局は単なる一滴であって社会を構成するうえで大したものではないのだ、というわけです。
亡くなる直前に改変されたこともあり、人生を達観したかのような内容に変わっています。

宮沢賢治はわたしを
「仮定された有機交流電燈のひとつの青い照明」
「因果交流電燈のひとつの青い照明」という「現象」だと詩集 春と修羅のなかで書いていたのを思い出しました。

たかがわたし、されどわたし。
どっちが正しいかなんてわからないけれど
自分が生きていくなかで
すこしずつ見つけられたらいいですね。
わかりませんね、答えは求めなくていいの。
世界にはふたつの問いがあって。ひとつは答えがきちんとあるもの。もうひとつは果てしなく答えが広がっていて、誰にも正解はわからないもの。
誰にも正解はわからないのだから、たくさんたくさん解釈があっていいのかもしれない。
自分の解釈だけが正しいと盲信して猛進する、他人に押し付けてはならないのです。

人生と問いは似ていると思う。
私はいま私自身の精神を理解しようと闘っています。正直、学校という場に私はあまり適応できません。
だから人間が怖くてお昼の学食がきらい。
けれど、仕方ないなって自分を理解してあげることができたなら、楽になれるのかも。

いうなれば
私はいま片足でしか立てないのです。
ふらふら。ふらふら。
それを支えるお薬と病院がないと立てない。
けれど、いつかは自分の足で立てたらな。

まだまだ先は長い!
永遠に続くように思える道だけれど、
みんな最期は同じだものね。
ただ常套句のように頑張れ、という言葉を言われるのも言うのもあまりすきではないから。
最近、私は漠然と社会に向いていないから、就職なんて出来やしないのじゃないかなんて3年後のことを考えて不安になることが多いのです。

でも。
死を夢見て生きろ!
それではまた…