水鏡文庫

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誰も悪くないかもしれない、ということ

この世界には、しばしば善か悪かあるいは白か黒かというふたつの思想をもって語られることがあまりに多い。だからといって、私がそのように思考することを辞められるほどの聖人でもないわけで、むしろそのふたつに支配されがちな人間であるということは、十分に理解している。特に、精神的に参っているときには、そのような判断しかできなくなって、どちらかに分類しなくては落ち着かない。

 

最近、『レ・ミゼラブル』『ダンサー・イン・ザ・ダーク』など他にもさまざまな映画を観た。ここで話すのはこのふたつについてなので、その他はまたの機会に。割愛する。

 

ジャンバルジャンは貧困に喘いだ姉とこどもを助けるためにパンを盗んだため逮捕され、ジャヴェール警部は法に支配されて自殺し、エポニーヌは愛のために青年を庇い撃たれ、ガヴローシュは仲間のために撃たれる。

 

レ・ミゼラブル』も『ダンサー・イン・ザ・ダーク』も所謂「暗い」映画である。それでも私にとってこのふたつの映画は希望だった。私のなかに眠っていた、忘れかけていた概念をハッと思い出させてくれるような映画だった。

 

それは誰も何も悪くない、ということ。

私はなにか悪いもの、すなわちマイナスな感情を呼び覚ますようなものに出会ったとき、その中身を確認せずに判断を下した。「悪だから」という大きな主語を使って理由を語った。「どうして悪なのか」を考えようとしなかったのだ。

 

ダンサー・イン・ザ・ダーク』では、視力を失いつつあるセルマが貯めた息子のための手術費を、信頼していた警察官に盗られる。しかし、その警察官も、妻の浪費癖に苦しんでいた。妻はなぜ、浪費癖があるのか。それは描かれていないけれど、なにか苦しいことがあって、それを浪費で発散しているのかもしれない。

 

これらの映画は、本当にやるせない。

さまざまな人間が死ぬし、辛いことがたくさん起こる。どうしてなのか、それは誰も悪くないからかもしれないと思った。

 

特定の人間に憎悪を向けたとき、その肥大した憎悪が自分のことさえも殺してしまうことがある。それほどの憎悪を人間に向けたことがあるかはわからないが、私はそれほどの強い気持ちを向けている人間がいる。これは憎悪と簡単に括れるようなものではなくて、もっと複雑に絡み合った負の感情なのだが、同時にそれはどうしようもないものであることに気が付いたとき、その負の感情は次第に自らのほうへ向かい自らを傷付けていた。

 

表面で語られる「悪い」人間を「悪い」人間たらしめたものは何なのか。

 

不登校のケースひとつとっても、いじめられているから、勉強についていけないから、不良だから……それぞれのコンテクストはまったく異なる。不良と呼ばれる人間が、なんの意味もなく不良なわけではない。深夜にバイクのクラクションを大きすぎるほど鳴らすのは、彼らの行き場のない自己主張を体現する方法なのかもしれない。

 

念のため書き記しておくが、これは「罪を犯す」ことを庇っているわけでもないし、「仕方がない」とも思わない。けれど、いままで、白か黒かというふたつの思考に囚われていた私が、もしかするとこの世の中には、誰も悪くない悲しいことがたくさんあるのかもしれないと、ぼんやり思ったこと、考えるようになったことで、すこし楽になったという小さな記録のようなものである。

 

『ユーリ!!! on ICE』と出生家庭

 

先日『ユーリ!!! on ICE』についての記事【アニメ『ユーリ!!! on ICE』からみる「既存の枠組み」からの脱却 - 水鏡文庫】を執筆して、たくさんのRTや♡をいただき、本当に嬉しい限りです。ありがとうございます。

 

さて、今回は『ユーリ!!! on ICE』のキャラクターにスポットをあてて家族という呪縛、ユーリ・プリセツキー(15)と優子の心理的関係と距離について書いてみたい。先日の『ユーリ!!! on ICE』の記事で少々触れたが、筆者はある理由があって第3滑走のユーリ・プリセツキー(15)に異常なほど感情移入して私生活においても精神的に不調をきたした。そこで気になったのが、主人公である勝生勇利の憧れ西郡優子(人妻であり3人の娘を持つ)に対するユーリ・プリセツキー(15)の心理的変化だ。

 

その美貌でロシアの妖精と呼ばれているが、リンクから一歩降りればガラの悪いロシアンヤンキー。ヴィクトルと同門でありシニアデビューで世界一になると信じて疑わない野心家。フィギュアスケートで国からの援助を受けノービス時代から一家の大黒柱を勤める健気な一面もある。

(アニメ『ユーリ!!! on ICE』公式サイト「ユーリ・プリセツキー」の項より引用)

 

ユーリ・プリセツキーというキャラクターの紹介から見るに、家庭環境に何らかの問題を抱えていることが分かるだろう。8話現在で確認できたのは、彼が心を許し甘えられるのは祖父のみということだ。母親は彼のスケートを観に来られない、または観に来ない。

 

「じいちゃん、

また明日も一緒に練習来てくれる?

もっと上手に滑れるよ……

ママが来なくても僕、大丈夫だから……」

(第3滑走 幼少時代の回想シーンより)

 

本編で語られていないため、筆者の憶測だが、母親は病気で彼の練習に来ることができない可能性と、ネグレクトなど意図的に来ない可能性の2つが考えられる。

 

彼に与えられた課題であるアガペーはときに母性愛とも言い換えられる。見返りを求めない愛。つまり母親は本来子どもに対して見返りを求めるような愛を注ぐべきではないとも言えるのではないか。彼はアガペーを祖父から獲得することは出来ている。けれども、彼は幼くして家の大黒柱としてお金を稼がなくてはならないという透明な圧力のもとスケートをしてきた。好きだからスケートを自由にやらせてくれる勝生家との対比構造が出来上がっている。

 

幼い子どもが「良い子でなくてはならない」と思って生きるということは本当にせつない。本来「たとえ良い子になれなくても良い子でなくてもだいすき」と承認してくれる誰かが必要なのだ。子どもは本来、無条件で愛を受けるべき存在である。幾原邦彦のアニメ作品『輪るピングドラム』で多蕗桂樹というキャラクターの母親は彼を愛していたが、本当に愛していたのは彼ではなく彼の才能だった。ピアノが上手い彼を愛していただけで、彼自身を承認してくれる人間ではなかった。けれども彼は血縁関係には頼らない無条件の愛を注いでくれる少女 桃果に出会うことができる。それにより彼は救済されたのだ。(それにしても『輪るピングドラム』は素晴らしいアニメ作品なのでぜひ観てほしい、というか観ろ☆)

 

ユーリは勇利と異なり、スケートを好きという感情以前に「生きるため」にスケートをしているという印象を強く受ける。幼くして国の援助を受けながら、一家の大黒柱として生きる運命を背負った彼は勝たなくては家族を支えられない、生きられないという非常に大きくて透明な圧力に支配されて、身体ごと武器にしてまで勝とうとする。勝利に対して彼が異常なほどに貪欲なのはそのためだ。他のスケーターとはそこが大きく違う。

 

本来「たとえ良い子(=勝つ、お金を稼ぐ)でなくてもだいすき」と承認されて然るべきはずの子どもが、幼くしてそれを既知の事実として受け止めて行動しているということは、大変辛いことだ。

 

ユーリの祖父は確かに彼を可愛がっていて彼もそれを感じて懐いている。それは事実だ。けれども生きられなければ元も子もない。祖父だってユーリにお金を稼いで貰わなければならない立場にある人間だし、悲しいことに彼にその運命を背負わせている側の人間なのだ。

 

そんなユーリにとって、勝敗に関わらず彼を承認する優子という人間は非常に珍しかったのではないか。ノービス時代から「勝って家族を支えなくてはならない」と考え「生きるため」にスケートをしてきたのだ。優子はユーリがそこに存在するだけで鼻血を出して喜ぶし、応援する。彼が生きているという事実を承認している。その存在自体を承認しているのだ。ユーリの祖父が彼に注いでいるのは確かに愛である。だが、それは「生きていくため」には仕方がないのだが、ある意味での「条件付きの愛」でしかなかった。お金を稼いで「生きるため」に生命を燃やしながらスケートをしてきたユーリは、優子から与えられる「無条件の愛」にひどく珍しい不思議な感覚を抱きつつも、はじめて勝たなくても何故か喜んでくれる、存在を承認してくれる人間に出会い、優子に母性を見出したのではないだろうか。

 

(ユーリの自尊心や他人を寄せ付けないような行動は彼の才能に依るものでももちろんあるのだろうが、それだけではなくある意味で自分を護ろうとしている心理が働いているのかもしれない。事実、そういったケースはいくつもあるからだ。人間が発する言葉には自らに対する言い聞かせという可能性がある)

 

存在自体を承認された愛を既に獲得したうえで好きなスケートを続けている主人公 勇利と勝利してお金を稼ぎ家族を支え生きるためにスケートを続けているユーリは確かに極端なほど正反対だ。原作者が彼らに同じ名前を与えたことは意図的であろう。その他にも、彼らはお互いに自らの持っていないものを持っている。非常にわかりやすい対比構造だ。

 

人間を救済するのが、必ずしも出生家庭の人間とは限らない。むしろ、家庭という極めて狭い世界に閉じ込められることもある。本来、子どもには「たとえ良い子でなくてもだいすき」と承認してくれる存在が必要なのに、それを獲得できない子どもが世界中にたくさんいる。その子どもは無意識に承認を求めるようになる。必死に「だいすき」と褒めてもらうために「良い子」になろうとする。なんて辛いのだろう。そんな時には「良い子になんてならなくても生きていてくれるだけでだいすき」と払拭してくれる人間を出生家庭から脱出して見つけることができれば少しでも救済される。母性を注いでくれる人間が必ずしも血の繋がった家族ではないということを知っていてほしい。家族という呪縛に囚われていることもある。家族があかるくあたたかいものでなくてはならないと誰も定義することはできない。

 

私も母親からの「だいすき」が欲しくて「良い子」であり続けようと努力してきた。でも母親はいつまでたっても私を「だいすき」とは承認しない。筆者の弟も母親からの「だいすき」が欲しくて必死に「良い子」になる努力をしている。存在を認めてもらえない家庭なんて、地獄だ。存在を承認されたことのない子どもが、何も知らない幼いうちは「だいすき」のために頑張っていられるかもしれないが、じきに虚無感に襲われるだろう。私自身、ユーリは優子と出会うことができて本当によかったと思っている。

 

これからの物語の展開に更なる期待をこめてこのあたりで筆をおこうと思う。最後まで読んでくださいましてありがとうございました。出生家庭の呪縛から脱すること、親族の精神的殺害は決して悪ではない。私も願わくば知らない誰かの救世主になれたのなら幸せです。

 

 

 

『ユーリ!!! on ICE』からみる「既存の枠組み」からの脱却

 

2016年9月某日、私ははじめてこのアニメのディザーPVを目にした。元来フィギュアスケートの大ファンであり、作画オタク(なんて烏滸がましくて言えないただの趣味レベルです……)である筆者にとって大変な衝撃であった。「くそやばい、オシャレじゃん……」なこのアニメ、ただひとつ気になる点があったのだ。

 

所謂『腐向け』と呼ばれるような描写が多いということである。だが、筆者はさほど気にしなかった。なぜなら、男子フィギュアスケート界には同性愛者が多いという事実を既に知っていたからである。

 

「どうせ水曜日の夜は『文豪ストレイドッグス』で起きてるんだし、そのまま『ユーリ!!!』も観てみようかな」なんて軽い気持ちで観はじめたのが、この有様だ。

 

余談だが、筆者は第3滑走でユーリ・プリセツキー(15)の幼少時代の回想シーンやロシアに自ら帰るシーンで、精神状態が酷くなり、彼に異常なほど感情移入してしまっていた。それについては、私の過去の記事である【森鷗外『舞姫』の悲劇は豊太郎の母親によってもたらされた? 〜マトリサイドと青年期の心理学〜 - 水鏡文庫】から、なんとなく察していただきたい。

 

ユーリ!!! on ICE』と 愛

 

筆者は、『ユーリ!!!』をBLでないと否定したいという気持ちはさらさらない。むしろ、『ユーリ!!!』はBLだ!と声高らかに訴えていきたいと思っている。だが、『腐向け』や『腐媚び』という意見をみるとあまりの悲しみに、iPhoneが何台あっても足りないほどである。(こんなことを偉そうに語ってこそいるが、実は筆者自身が過去にこのアニメの描写に対して「やりすぎ」などと述べていたので、人のことを言えやしない)

 

そこで、『腐向け』と『BL』という両者間の極めて曖昧な定義について改めて考え直す必要があるのではないだろうか。

 

まず、『腐向け』や『百合』や『腐女子』という言葉は、二次創作物における公式でカップル描写のない男性または女性キャラクターをくっつけて楽しむという点で、ある意味で自嘲的であり、自虐的な意味を持って使われる場合が多い。(腐ィルターなどといった表現を使用することも、そのひとつであるといえるかもしれない……)どちらかといえば、ネガティヴな表現だと感じている。

だが、『BL』や『GL』という言葉は決してネガティヴなものではないはずだ。なぜなら、『BL』や『GL』という言葉自体には、『男性同士の愛』,『女性同士の愛』という意味しか含んでいないからである。

『腐向け』『百合』が苦手だということであるのならば、たんにそれは、公式では描写されていない男性または女性キャラクター同士をカップルにするという二次創作物が苦手だということになるのである。

二次創作物上で注意喚起を必要とする理由が、公式では描写されていないという点にあるのならば、公式では描写されていない男女キャラクターはどうなのだろう?

 

確かに、二次創作は非公式なものであるため、注意喚起を必要とするということは十分に理解できるが、それならば男女キャラクターであっても扱いは同じでしかるべきはずである。

 

ここでふたつ、

素晴らしい記事を紹介させていただきたい。

 

今期大人気アニメ ユーリ!!! on ICE で ヴィクトルと勇利がキスをしたことの意義 - inato備忘録

 

『ユーリ!!! on ICE』と「愛の再定義」 - 小夜倉庫

 

inato氏、長谷川さより氏はともに『ユーリ!!!』の愛について述べている。そして、私自身も自由な愛の形について述べるために、久しぶりにこのブログを更新することにした。

 

「BL要素があるなんて聞いてない」

 

このような意見をしばしば目にしたが、やはりこれは日本においてまだまだ同性愛が受け入れられていないという現実を端的に表したものであると感じた。いままでたくさんのスポーツを舞台にしたアニメや漫画において、男女の恋愛描写というものは普通にあった。それでも「男女の恋愛描写があるなんて聞いてない」とは誰も言わなかった。渋谷区が同性愛結婚を認めると発表したところで、やはり人々の考えはそう簡単に変わるものではないのだ。だけれども、考えを変えてほしいなどとは思っていない。否定しないでほしい、それだけだと思う。

 

「透明な枠組み」からの脱却

 

ユーリ!!! on ICE』第7滑走において、筆者のなかで非常に興味深い展開があった。いや、筆者だけではない。第7滑走を視聴していたであろう全世界の人間が過呼吸を起こし、あの世行きになるほどの大惨事であった。

 

……キスした?

 

本当にこれである。でも、私はここまで観ていてもうすでに勇利の成長に号泣していたので、一瞬 息が止まった。第7滑走は大変話題となり、しばらくの間Twitterのトレンドに居座り続けていた。

 

(キスをしていないという解釈も、もちろんあると思うのですが、ここではキスをしたこと、それを描写した制作側の意図を図ろうとしたものですので、解釈が異なる、または受け入れられられないという場合の閲覧を推奨いたしません)

 

愛の定義は非常に曖昧であるが、曖昧であるからこその“よさ”も存在する。

勇利は作中で「ぼくの愛」について語る。勇利は「ぼくの愛」を「自分から繋ぎとめたいと思った」と定義している。「地元に対する微妙な気持ち」もひっくるめて「ぼくの愛」として定義している。ユーリは作中で「無償の愛」を「じいちゃん」に対する気持ちだと定義している。

それが「愛」の“よさ”だ。

 

第7滑走での「キス」は「自由な愛の表現」の象徴であると考える。勇利の素晴らしい演技に対するヴィクトルなりの最上級の愛の表現であり、同時にそれは非常に衝動的なものである。自由に生きている、自由に表現している。それが、あの形で表されたのではないか。

 

また、『ユーリ!!!』は非常にやさしいアヴァンギャルドな世界だ。だれも、彼らの「愛の定義」を否定しない。「愛の定義」を否定するということは同時に「その人間自身」を否定することになりかねないと私は思う。氷上の芸術でもある、フィギュアスケートという競技は自由な「愛の定義」を表現するのに相応しい。

 

それにしても、通常のアニメ作品で同性同士のキスシーンを描写するという行為は非常に革命的なのではないかとさえ思う。現実の世界には男女の愛も男同士の愛も女同士の愛も、もちろんそれ以外の愛だって、たくさん散らばっているわけだし、本来は誰もそれを定義する権利はないはずだ。それを既存の「透明な枠組み」に縛られずに自由に表現したという点で『ユーリ!!!』は未来のアニメ作品における描写にも、大きな影響を与えるものとなるのではなかろうかと期待したい。

 

受け容れるということ

 

少し話は逸れるかもしれないが、アヴァンギャルドでやさしい世界という点で、共通していると個人的に感じたアニメ作品についてふたつほど言及したいと思う。『ユリ熊嵐』については、既に長谷川さより氏の記事で紹介されているため、割愛する。

 

 

これも言わずもがな大人気なシリーズである。筆者の友人が好きなので、それをきっかけに興味を持ち、毎週 楽しく視聴している。刀剣を男士に擬人化したという大変斬新なアイデアで、日本史などに興味を持つきっかけになりそうな良い作品である。私がここで取り上げたいのは、様々なキャラクターの「個性」が極めて普通のものとして受け容れられているという点である。少女のような容貌をしたキャラクターもいるし、女形の設定のキャラクターもいる。(それらの設定はその刀剣の持ち主であった人物の趣味だとかそれらをどう扱っていたかなどに拠るものである)だが、誰もそれを否定したり、変だと言ったりはしない。受け容れているのだ。皆それぞれ「自らの定義」なるものを所有していて、それを受け容れているからこそ生まれる、ある意味でこれも暖かな愛に包まれた作品だと考えている。

 

 

筆者が大好きで、そしてこの先も大切にしていきたい作品のひとつである。『ユリ熊嵐』の幾原邦彦が関わった作品だ。彼は非常に革命的で前衛的な演出で注目を集めているアニメーターであり、『美少女戦士セーラームーン』でもキラリと光る個性が眩しい。まず、この作品は「女の子は王子様の助けを待つ弱い存在」だという「既存の透明な枠組み」からの脱却に成功している。(近年のディズニー作品でも現れているが、ここでは触れないものとする)これは、幾原邦彦作品全体に流れている気もするので、『セーラームーン』が特別だというわけではないのだが。(アニメ『少女革命ウテナ』などの作品にも大いに現れている)ここでやはり述べたいのは、セーラーウラヌスセーラーネプチューンの関係性である。ーラーウラヌスはセーラーネプチューンと「恋人」なのかと尋ねられたとき「それ以上」だという答えを出した。その他の描写にも現れているように、彼らの「愛の定義」には「既存の透明な枠組み」には決して縛られない自由さがある。宇宙のように深く、そして誰にもわからない彼らなりの「愛の定義」がそこに確かに存在しているのだ。

 

おわりに

 

この文章を通して、私が伝えたかったことはさほど大したことでもない。ただ、『ユーリ!!!』第7滑走における男性同士のキスシーンが与えた影響について考えているうちに、「愛」とはもっと自由であってもよいのではないかと思ったのみである。「愛」は私たち人間の生きる力となり、私たちを救済する。その「愛」をほかの人間が否定することはできない。例え、その「愛」や「人生」が「既存の透明な枠組み」から外れていたとしても、その人間を生かす「愛」はただひとつの「愛」のみなのだから。

 

ユーリ!!! on ICE』は「既存の透明な枠組み」には決して縛られない「愛」の描き方をしている。男女の愛情を観て感動するように、男性同士の愛情や女性同士の愛情を描いた作品だってあってもいいのではないか。それはみんな彼らの「愛」であり生きていくために必要なものなのではないかな、と強く感じる。ほんとうはみんな同じ「愛」であるのに、それを『BL』や『GL』というジャンルにわけた挙句、遠ざけるのはあまりに乱暴で勿体ない。私自身、深夜アニメなどに触れはじめたのは2,3年前からで日は浅いのだが「愛」について考えるきっかけとなったし彼らの周りを輪るさまざまな「愛」にひどく感動したりもした。

 

勇利が生きていくために必要な「愛」、ユーリが生きていくために必要な「愛」、ヴィクトルが生きていくために必要な「愛」はすべて違う「定義」のもとに成立している。それを氷上でいかにうまく晶華させるか。つまり彼らにとっての「生命」なのではないだろうか。

 

長くなりましたが、最後まで読んでいただきまして本当にありがとうございました。あくまでこれは個人の意見にも満たない戯言ですが、何か少しでも感じてくださったのならば、この上なき幸せです。私は持病など生まれ持ったコンテクストが周囲とは違っていて、幼いころから私はそれを恥ずべきことだと考えて、ネガティヴに捉えていました。その結果、小学校から症状は出ていましたが、青年期になり、精神疾患と診断されました。現在も、持病と精神疾患と戦いながら、私なりの「愛の定義」つまり「生きる意味」を少しでもいいから見つけようともがいています。

 

ここまで読んでいただき、本当にありがとうございました。皆さんの素敵な「愛の定義」がたくさん見つかりますように。

 

新しい記事も書きました、ユーリ・プリセツキーについてです。こちらもぜひ。

アニメ『ユーリ!!! on ICE』と出生家庭 - 水鏡文庫

 

(2016年 11月20日 投稿)

 

 

輪廻の果てに飛び降りる

タイトルは、スピッツの「青い車」からいただきました。スピッツが昔からだいすきなのですが、なかなか意味深な歌詞が多いので、たくさんの解釈がたくさんの方によってなされています。

君の青い車で海に行こう
おいてきた何かを見に行こう
もう何も恐れないよ Oh…
そして輪廻の果てに飛び降りよう
終わりなき夢に落ちて行こう
今 変わっていくよ
(草野正宗 作詞)

これは心中説があります。
もともと、草野マサムネさんはセックスや死をテーマに曲を書くので、多くの曲にそれらのメタファーが散りばめられています。

あとは、Mr.Childrenもだいすきです。
最近のだと「斜陽」と「足音〜Be strong 」が好きです。あとは「innocent world」と「終わりなき旅」がやっぱりだいすき。

さて。好きな音楽の話はこんなところで。
今日のテーマは哲学のこと。
哲学の講義が、とても興味深いのです!
「わたし」という存在や魂について、文学をテキストにして読みとる講義です。
とくに、志賀直哉が「わたし」について述べた文章が印象的でした。

「私はナイルの水の一滴に過ぎないが、それは後にも前にもこの私だけで、私という者は現在の私だけなのである」

そして文章の結びには
「直哉」と自らの名前を書いて
たったひとりの私をアピールしている。

けれど、このあと晩年にこの文章を改変しているのです。

「私は依然として大河の一滴に過ぎない。それで差し支えないのだ」

私という存在を示す「直哉」という名前はなくなっています。
私なんて結局は単なる一滴であって社会を構成するうえで大したものではないのだ、というわけです。
亡くなる直前に改変されたこともあり、人生を達観したかのような内容に変わっています。

宮沢賢治はわたしを
「仮定された有機交流電燈のひとつの青い照明」
「因果交流電燈のひとつの青い照明」という「現象」だと詩集 春と修羅のなかで書いていたのを思い出しました。

たかがわたし、されどわたし。
どっちが正しいかなんてわからないけれど
自分が生きていくなかで
すこしずつ見つけられたらいいですね。
わかりませんね、答えは求めなくていいの。
世界にはふたつの問いがあって。ひとつは答えがきちんとあるもの。もうひとつは果てしなく答えが広がっていて、誰にも正解はわからないもの。
誰にも正解はわからないのだから、たくさんたくさん解釈があっていいのかもしれない。
自分の解釈だけが正しいと盲信して猛進する、他人に押し付けてはならないのです。

人生と問いは似ていると思う。
私はいま私自身の精神を理解しようと闘っています。正直、学校という場に私はあまり適応できません。
だから人間が怖くてお昼の学食がきらい。
けれど、仕方ないなって自分を理解してあげることができたなら、楽になれるのかも。

いうなれば
私はいま片足でしか立てないのです。
ふらふら。ふらふら。
それを支えるお薬と病院がないと立てない。
けれど、いつかは自分の足で立てたらな。

まだまだ先は長い!
永遠に続くように思える道だけれど、
みんな最期は同じだものね。
ただ常套句のように頑張れ、という言葉を言われるのも言うのもあまりすきではないから。
最近、私は漠然と社会に向いていないから、就職なんて出来やしないのじゃないかなんて3年後のことを考えて不安になることが多いのです。

でも。
死を夢見て生きろ!
それではまた…


暗鬱な世界観とその魅力

精神的に疲れたときには、明るい音楽を聴けばいいのだろうと勝手に思い込んでいました。けれど、心理学上では自分の精神状態に一番マッチする音楽を聴くほうが回復につながるということで。

くらい曲を探して、まず見つけたのは。
たまの「電車かもしれない」
PVも素敵な絵ですごく暗いけど胸に刺さりました。
歌詞を引用してみます。



「電車かもしれない」 / たま

ここに今 
ぼくがいないこと
誰も知らなくて
そっと教えてあげたくて
君を待っている
ホラ 
もうそろそろだよ
物理の成績の悪い子どもたちが 
空中を
歩き回る時刻
夕方ガッタン 
電車が走るよ 
夕間暮れの空を
ぼくらは生まれつき 
体のない子どもたち

ここに今 
ぼくがいないこと 
誰も知らなくて
そっと教えてあげたくて 
君を待っている
ホラ 
寂しい広場では
まるで算数を知らない子ども達が 
砂を
耳からこぼしているよ
台所ゴットン 
電車が通るよ 
よそのうちの中を
ぼくらは生まれつき 
体のない子どもたち

夕方ガッタン 
電車が走るよ 
夕間暮れの空を
ぼくらは生まれつき 
体のない子どもたち



引用ここまで

けれど、私にはある意味で希望もみえるような気がします。解釈がわかれていますけれど、水子説とか。たしかにそうもとれますよね。生まれつき体のない子どもたちだから。でも、実際に体がなかったのではなくて、出生家庭で子どもとして認めてもらえなかった。家庭や学校のなかでもがき苦しんだけれど術が見つからずに自殺した子どもたちの歌にも聴こえる。理不尽な大人というものに苦しめられている子どもたちの歌だ。でも、そこから逃げたんですから。ここに今ぼくがいないことを誰かに分かってほしいんです。私にとってこの歌は希望です。

それでは本題。

私がいちばん好きなアーティストは森田童子です。
彼女がいま生きているのかもわからず、ファンレターも出せないけれど、すごく好きなのです。イチオシは「G線上にひとり」です。好き嫌いはわかれるだろうけど、彼女のモラトリアムな世界観が、弱々しくうつくしいメロディーが、今にも消え失せてしまいそうな儚い歌声が、私のこころにやさしい風として入ってくるのです。

ドラマ高校教師でも「ぼくたちの失敗」が使われていたようで、私もレンタルして観てみましたが、本当に素敵に使われていて嬉しい気持ちになりました。


G線上にひとり/森田童子

夏草の上に
ねそべって
まぶしい孤独な
夢がひろがる

ひとり目ざめて
あくびして 涙ふいた
夏の空は
ヒコーキ雲

何もいわない
六月の空は
ぼくの好きな
みずいろです

暗闇よ ぼくを呼べ
遠い記憶へ
あなたの ところへ
ぼくをつれてって

やさしい風は
ぼくをなでて
ひとりは とても
いい気持

夏草の上に
ねそべって
いま ぼくは
死にたいと思う

引用ここまで

他にも
「逆光線」
「たとえばぼくが死んだら」
「蒼き夜は」
「まぶしい夏」
「雨のクロール」
「蒸留反応」
「海が死んでもいいョって鳴いている」
「ラスト・ワルツ」
など素敵な世界観の曲がたくさんあります。

森田童子の苦しみを私は分からないけれど、苦しみを分かってくれる気がするのです。死にたくなると、真っ暗な部屋で森田童子を聴きながら、太宰やカフカ、中也を読みあさり精神を落ち着かせています。(もっと早く森田童子を知っていれば、自殺未遂もしなくて済んだのにね)

私は同じ18年生きてきた子と同じような考え方ができません。波乱万丈だけど、自分でも疲れてしまうくらいに。けれど、頑張るんです。もう少し。もう少し。

それでは。

森鷗外『舞姫』の悲劇は豊太郎の母親によってもたらされた? 〜マトリサイドと青年期の心理学〜

みなさんごきげんよう。水鏡です。

突然ですが、マトリサイドとは聞きなれない言葉だと思いませんか?

もちろん、私もはじめからこの言葉を知っていたわけではありませんでした。けれど、 Twitterで仲良くしていただいているあるフォロワーさんがこの言葉を使って素晴らしいブログ(http://mortal-morgue.hatenablog.com/entry/2016/02/12/125224)を書かれていたことに感銘を受けまして、それが考えてみるきっかけとなったのです。私はプリキュアにすごく詳しい人間ではないのですが、とても心揺さぶられる文章でした。そうして意外にも、マトリサイドという状況は世界にも私や周囲の人間の心の中にもたくさん転がっていることも分かりました。みなさんの心の中にもきっと存在しうるのではないでしょうか?




マトリサイド - Matricide
【名】
《殺人》母親殺し
発音mǽtrisàid、分節mat・ri・cide




………ど、どうでしょうか?笑

母親殺し……?もちろん、私にだって母親を殺すことなんて到底できませんし、ひと昔前までは親を殺すことは無条件で最大の悪だと考えられていましたよね。

そう!ここでは行為としてのマトリサイドではなく文脈つまりコンテクストとしてのマトリサイドを考察していきたいと思います。


ここで扱うマトリサイドとは、事実としての殺しではありません。あくまでも、ひとりの人間として生きるために大切な営みとして、ひとつのメタファーとして、そう捉えていっていただきたく思います。ともすれば、私のただの自己満足とも自己解決とも呼べる意見になるのかもしれません。また、プロパガンダ等の意図はいっさいございません。



***



☆まずはじめに

マトリサイドのメタファーとは「思春期の自立」だと私は捉えている。アメリカの発達心理学エリクソンの提唱したライフサイクル論を基に考えてみたい。


☆森鷗外の『舞姫』について

あらすじを軽く触っておこう。

主人公の豊太郎は幼少の頃から父親がおらず、母親ひとりに育てられ、学業の成績は頗る良く、大変優秀な公務員となった。そんな豊太郎の上司は、彼をドイツに留学させることを決意する。(ちなみに物語はこのドイツ留学の帰りの船の中での描写からはじまる)そこで出会った金髪の美しい舞姫のエリスと恋に落ちるが、豊太郎と舞姫エリスの関係は遠く離れた日本にまで知れ渡り、それを知った母親は自殺し、上司には見放されてしまう。生活に困った豊太郎は、新聞社で働きながらも、エリスとともに"憂きが中にも楽しき月日を送りぬ"。それをきっかけに、豊太郎はエリスとの関係を深めていき、ついに彼女を妊娠させてしまう。そこで、相沢という豊太郎の友人が彼に手を貸す助っ人として登場する。しかしながら、結局のところ豊太郎は、妊娠したうえにパラノイアを拗らせたエリスをドイツに残し、日本に帰国する。こんな具合だ。


この森鷗外の『舞姫』という小説は高校生の現代文の教科書のなかでも扱われている、超 名作文学だ。だが、たいていの国語教育の現場に於いて豊太郎が批判される立場に圧倒的におかれやすい。私も、高校3年生の頃に現代文でこの物語を既習したのだが、どうも教師や周囲の友人の考え方に納得することができず(もちろん、教師の立場に於いては倫理観の問題もあるのかもしれないのだが)にひとりもやもやしていたのを覚えている。特に、筆者は女子校だったため、豊太郎に対する批判ないしブーイングはものすごく多かった。

豊太郎は、母親の期待という強すぎる圧力をたったひとりで受けてきたわけで、他人の期待に応えるために、自分を偽り、他人に尽くすことを覚えたのだ。それゆえ、上司にも気に入られたのであろうし、母親もそんな豊太郎がたいへんな自慢であったのだろう。


通常、思春期とは、ライフサイクル論から見ると親の言うことにただひたすら盲目的に従ってきた幼少期とは異なり徐々に懐疑心を孕むようになるはずなのだ。


しかし、豊太郎にはそれが一切ない。気持ちが悪いほどに、ない。前半部分の豊太郎には人間味というものがまったくと言っても過言ではないほどにないのである。


舞姫エリスとの関係を通告された豊太郎は、上司に見放され、母親は遺書を残して自殺してしまう。


ここに注目してほしい。


母親というものは、本来無条件で子を愛すべき存在である。ちょうど、イエスキリストを包み込む聖母マリアのように。

しかし、この母親は、あたかも息子 豊太郎を大切にする良い母親のような顔をして、自らの思い通りに息子を操作するということを平気でしているのだ。自分の思い通りのお人形にならなかった豊太郎に失望し、自分の名誉のためだけに自殺したと解釈することも可能である。自らの息子が、舞姫と関係を持っていると知った母親が自殺するのは、自らの息子(の成し遂げた偉業)をたったひとつの誇りとして生きてきた母親の自尊心がへし折られたからだと十分に考えられるであろう。


しかしながら、おかしいとは思わないだろうか?


母親が子を育てるということには、希望と後悔が共に存在している。母親が自らの子に対して希望を見いだすということは全く以って悪いことではない。だが、母親自身が、子と同一化しようとしてはいけない。自らの低い自尊心を、子に投影してはいけない。自らの満足のために子がいるのだろうか?自らの満足のために、子を育て、こんなにも、私の子はいい子(=私はいい子)と思いたがる。


実のところ、私の母親もそれである。豊太郎がマトリサイド未満であるように、私もまたマトリサイド未満なのだ。私もいっさい、反抗期がなかった。母親を盲目的に信仰し母親の判断にびくびくと怯えながら生きている。マトリサイドをしてやる、と強くこころに決めながらも潜在的に母親に気に入られるような行動をとってしまう。身動きがとれないのだ。


☆ここで少しだけ技巧について触れておこう

舞姫』には所謂「ダブルプロット」と呼ばれる、話の中に話が挿入されているタイプの技巧が使われている小説である。類似的または対照的な物語が互いに効果を高め合うような構造となっている。太宰治の『人間失格』や漱石の『こころ』もそれの代表例と言えるだろう。


閑話休題


物語は進み……相沢の助言により豊太郎は、エリスをドイツに残し、立身出世を取ることを決意する。

"さらぬだにおぼつかなきは我が身の行く末なるに、もしまことなりせば如何にせまし"

舞姫』を読んでいると、豊太郎はいっさい自分の人生に於いて大切なことを、ひとりで選択できていないことが分かるだろう。相沢の助言により、エリスとの関係を断つことにしたこともまた然りだが。それにしても……なんとも、このラストシーンは悲しい。


"我が豊太郎ぬし、かくまでに我がをば欺きたまひしか"


エリスの悲痛なまでの叫びである。



***




マトリサイドとは、人間の精神的成長に於いて重要なものであると考える。大人になるにはマトリサイドをしなくてはならない。マトリサイドできなかった豊太郎は没落した。おまけに、マトリサイドするきっかけまで母親に奪われた。この物語の悲劇性は、豊太郎はもうマトリサイドになれないというところにあると考える。死ぬまで母親に囚われ続けるのだ。マトリサイドできないままに母親に自殺されてしまったからだ。それは母親の、時に凶器にも成り得る期待という名の圧力に他ならない。マトリサイドをし損ねた豊太郎は"所動的、機械的"人間に成り果てた。所詮、この母親は豊太郎の傀儡師でしかない。自分を息子に投影して、自らの成し得なかった偉業をやってのけた息子に対して、痛々しいまでに肥大した自尊心と感情を抱え、依存していたのだ。

ドイツ留学により、母親という監獄から解放された豊太郎は、実学より虚学を好んでいる"我ならぬ我"を発見する。もっと早くにマトリサイドさえできていれば、エリスとの悲劇は生まれなかった。私はそう考えている。


☆ちなみに

これの対義として、太宰治の『人間失格』とヘッセの『車輪の下』がある。あるいは、志賀直哉の多くの作品にそれが表れている。所謂、父親殺しである。これはまたの機会にお話しするとしましょう。


☆最後に

母親によってもたらされる人間形成や人格、認知の歪みによる苦しみは計り知れない。母親や家族というものがあかるくあたたかいものだ、むしろそうでなくてはならないという考えを押しつけてはならない。お金持ちの家に生まれた子どもがかならずしも幸せとは限らない。大切に育てられた箱入り娘がまっすぐに育つとは限らない。今、私は教育学に興味を持っており、児童の心理的発達について研究をしている。都内のどこかに母親という監獄に苦しみながら、自らの研究とも言える研究をしている女子大生がいるのだ。これを少しでも目にしてくださったあなたや、あなたの周りの人間だって、もしかするとマトリサイドできずにもがきくるしんでいるマトリサイド未満かもしれない。マトリサイド予備軍かもしれない。少しでもこの文章が誰かの支えとなり希望となるのならば私は幸いです。うつくしい世界をひとりでみてみたい。母親というフィルターにかけられたままに世界をみつめて、汚い世界に絶望しないでください。私もまだまだ闘い続けるだろうし、これからもそれらについて書き綴っていきたいと思っています。ちょうど私が長谷川さより氏のブログに勇気をもらったようにどこかの小さなマトリサイド予備軍のもとに届いてくれたのならこの上なく幸せです。

そしてこの文章を、書くに至るきっかけと勇気をくれた長谷川さより氏に捧げます。



Twitter→@Mizukagami100


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