水鏡文庫

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5月の葉

 

生まれたことがすごいかは知らんけど、生きてることはまぎれもなくすごいんじゃないかなって、さいきん思っている。生命の神秘。はぁ。人間の誕生。へぇ。ってかんじ。正直あまり興味がなかった。生まれたことって、すごいのかな。誰がすごいのかな。それって私に言われても、肯定されてるのは、私じゃないよね。だって、生まれようとしたことなんてないんだ。だから、生まれたことがどんなにすごくて、かけがえのない命で、って言われてもよくわかんない。それでも、すごいって思うのは、生きてること。生きてきたこと、生きてること、ほんとうにえらいしすごくない?もっともっともっと、私が生きてることを肯定してよ。生きてること、とてつもない。生まれたことがすごいかなんて、私にはいまもわからないから、知らんけど。でも、生まれたことはよいことなんだって、それはわかるようになった。すごいかは知らんけど、よかった。よかったよ。だって、生きてきたんだから。私、ずっと生きてることを褒めてほしかった。とにかく、私に付随する要素じゃなくて、私が生きてること、私のことを認識してほしかっただけなんだね。私には、すごいところなんてなにひとつないと思っていたけど、あったよ、すごいとこ。ちゃんと、生きてきたこと。呼吸を辞めなかったこと。たとえ、それがちょっとの間でも、生きてたことはほんとうにすごいことだ。別に死んだってかまわないよ。だけど、生きてるんならもうすでにすごいんじゃないかなって思った。だから、ちゃんとすごかったんだよ。

 

履修もすっかり組み終わって、時間割が決定した。資格とれるらしいから、そのためになんとか頑張って通っている。朝は8時よりはやく起きるのがほんとうにしんどくなってしまって、自分の身体なのに意味わかんないよね。頭のなかには、小さい蜘蛛みたいな虫がたくさん這い蹲ってて、それが文字の集合体で、話したいことがたくさんたまると、その集合体に首から胸までぜんぶぜんぶ埋め尽くされちゃって、くるしくなるから、ただ思いついたことを話してる。そうすると、蜘蛛は消えるよ。私にとって、文字は生きてるし、動く。蜘蛛なんだと思う。

 

みんながどんどん生きていこうとしている。正直、怖い。ずっと研究室で本を読んだり、意見交換したり、そんな生活をずっとしたいなって思ってるのに、やっぱりそういうわけにはいかないらしい。みんな、同じ人間になろうとしているみたいだ。みんなのおもしろいところ、なくなってきて、わからなくなってきて、ちょっと寂しい。そのままでいてほしいなんて、傲慢だよね。それはわかっているんだけど、ごめんね。私は、何かをしているようで、何にもできていなかったんだ、そう気付いたときにすごく不安になって、私はどうして世界に対してこんな目しか持っていないのだろうって泣きたくなった。泣けやしないけど。いつもみんなからは外れたところで、それをぼんやり眺めているような、隔離されているような、そんな気がしている。ゼミの日の夜は、なんか知らんけど久しぶりに手首を切って寝ていた。ほんとうに浅く、血も少ししか出ないように切っていた。2年ぶりくらい。たしかに傷はできたから、ああやっぱりちゃんと生きてたんだなって、ちょっと面白くなってしまっている。

 

家にいるのにバイト先の塾のチャイムが聴こえてくるの。笑っちゃう。あまりにヤバいから笑ってる。私は、誰かの神になりたくて、でもそれって、私の誰かに必要とされたい願望を、投影していただけに過ぎなかった。結局のところ救済されたいのは己なのに、救済しようとして、そんな簡単な救済ってあるの?愚か。救済ってたぶん偶発的なものだ。救済したいんなら、一生懸命に生きるしかない気がしている。救済って、水色。私は、小学生の生徒に勝手に感情移入して、救済しようとして、それで勝手に苦しくなって、馬鹿だよね。だから、救済について考えるのをやめた。私が生徒を救済できるかなんて、生徒にしかわかんねえよ。私は、無意識にずっと彼を庇護対象としてしかみていなかったんだ。

 

やりたいことはたくさんあったのに、タイムリミットはすぐそこまできている。バンドで歌いたかったし、ドラムもやりたかった。舞台に立って、演技もしてみたかった。はじめてのことに対して努力する元気は、もう私には残っていないんだけど、まあ仕方ないかな。

 

どうしたら小説家になれるのだろう。

 

私の色は、ずっとむかしからピンクだったのに、誰かのためのピンクじゃないはずなのに、世界にでたら、ピンクって女の子の色って、そういう透明なフィルターがいっぱいかかっていて、私はただ私の色を身に付けたかっただけだったのに、女の子だねって言われて、なにも言えなかった。女の子になりたい。アイドルになりたい。だいすきだよ、ピンク色。あとね、どうでもいいけど、私の世界に対する不思議な感じのひとつは、共感覚っていうらしかった。

 

恍惚と不安と、ヴェルレエヌ。私は、私を忘れて欲しくない。ゼミの発表はいちばんに終わったのに、もっともっともっとすごい発表がたくさんこれからされていくんだろうなって思うと、私は何にもできていなかったこと、突きつけられるのが怖いから、発表終わって、しかもたくさん褒められて、それなのにものすごく不安だ。褒められるの、怖い。いつか褒められなくなる日がくるかもしれないのが、怖い。

 

私はもっとみんなが思っているよりもっと狡猾な人間だよって言えたら、きっと狡猾な人間じゃなくなるんだろう。

 

川に飛び込んで魚になれたらいいな。

 

また、こうして書きたい。きっと書くよ。時間はずっとかかるけど。それでもいい。いつになるかはわからない。

 

どうでもいいけど、赤ちゃんが笑うのっておもしろいからじゃないらしい。勝手にかわいい笑い顔を顔の筋肉が作っていて、それで捨てられないようにするんだって。かわいいと、捨てられないからね。生きるための微笑。

 

夏まで生きていこうとしている、きっと夏になったら冬まで生きていこうとするんだろう。でも気持ち悪くて綺麗だよ。なんとなくだけど。

 

4月の青

 

 4月、絶望である。絶望といっても、まっくらくらのそんな絶望じゃなくて。ふわふわってしたもっとあかるい絶望。絶望は、べつにまっくらなだけじゃないなあって気がついた。大学に入って3年目になって、もう3回目なのに、新学期はいつもこんなあかるい絶望に包まれている。慣れない。私はもう、私のペースで歩くから、まわりのことは気にしてないふりして大学生活を送ってきたけど、そんなのふりに過ぎなくて、やっぱりすごく神経質になっている。私はなんにもしていないなあって、すごくすごく不安になって、馬鹿みたいに爪を齧ってる。

 

この前の木曜日に、今学期はじめてのゼミがあって、10人くらいいて、私はそのゼミの教授が大好きで仕方なくて、それで入ったんだけど、そのときの自己紹介と顔合わせで、私って何でもないことを言い訳にして何にもしていなかったのかもって、焦った。でも、私は私にしかできないことがあるんだって、信じてるから、今はもう前向き。だけど、そのときは不安になって、うまくやっていける気もしなくて、議論も先輩や教授としてた1年生のころがいちばん楽しくて、でもゼミには同学年しかいなくて、喉が詰まった。

 

みんな普通に話してるときはみんなが違ってて面白かったのに、自己紹介になった途端に、みんなおんなじ教職とか就職とか就活とか教採とかボランティアとか、そんな話ばっかりになっちゃって、なんかこわかった。リアルすぎたのかな、吐きそうなほどつまんなくて。誤解を招く表現をしてしまったけど、まわりはみんな生き生きしていて、生きていこうとしていて、それがなんか私には気持ち悪くて、でも、まわりのみんなは全然絶対悪くないし、むしろ私なんかより何倍もがんばってて、あかるくて、それで絶望した。あかるい絶望ってそんなかんじ。春ってみんな生きようとしてるから、私はそれ見て勝手にめっちゃ気持ち悪くなって、私ってほんとに馬鹿だなって思う。ちなみに私は、ほんとになーんにも考えてないし、嘘もつけないから、就活いまは考えてないです。フランツ・カフカと教授が大好きです。教育哲学専門で研究したいです。文学と演劇とヴァイオリンが好きです。って、それだけ話した。みんなの言葉がまったく違う言語圏での言葉みたいにかんじて、私だけがなにもできてなくて、どうしようって思ってた。不安が襲ってきて、私でもとある資格なら、今年毎日大学行ったら取れるよって友達にいわれたから、今年は毎日大学に行くよ。

 

どうでもいいけど、その資格とるための必修の講義で、クソフェミニズムはもういらない、って言った教授、なんか知らんけど面白かったな。フェミニズムに、クソがついて、吐き捨てるようにクソって言って、そのあとフェミニズムって言ってた。いまは、ポストフェミニズムの時代らしいよ。

 

好きだから心理学と哲学をたくさん取って、資格の必修も入れて、でもなんだか人間みたいになれるかもしれないし、ちょっと期待しておくから、だからあかるい絶望。キルケゴール死に至る病を買った。憧れの岩波文庫の青。哲学とかそういうジャンルの本は、青い色がついてる。普通の文学は赤い。あとは、そのゼミで使うほかの岩波文庫の青。それを何冊か買った。

 

自分はどうしたいのかわからないし、将来自分が生きてる予感もしないし、終わらない上りのエスカレーターに乗ってるイメージが湧いてくる。いままで何度もそのエスカレーターから飛び降りようとしたけど、できずにここまで上って来ちゃったから、いまさら飛び降りたくない。だけど、先はなんも見えなくて、それで不安。

 

ひとりでいたいときってあるけど、そばにいても全然ひとりでいるときとおんなじ精神でいられるような、そんなひとがいる。ひとりでいようとしていても、そのひとがいたら、そばにいるほうを選んじゃう、そんなかんじのだいすきなひと。大学にいるのはたったひとり。先輩。大学で講義一緒に受けようお昼食べようって声かけられる、所謂イツメンっていうの、一応私にもいるんだ。その子たち4にんはみんないい子で大好きだよ。だけど、逃げちゃうこともある。大好きなのに、ごめんね。その子たちと、いると楽しいはずなのに、疲れちゃうから、先輩に会うために学生相談室に行って、いつものソファにふたりで座って、それだけ。

 

たまに、こうやってブログ更新してみようかなっていうの、れみちゃんの真似。楽しかった。1週間のまとめ、こうして書いていきたい。続くかは、知らんけど。

 

そろそろ寝たい。

 

今度、私が人間を救済しようとしていることが如何に愚かな考えだったか、を書きたいんだ。今度が、いつになるかはわからない。明日かもしれないし。

 

小説家になりたい。

 

誰も悪くないかもしれない、ということ

この世界には、しばしば善か悪かあるいは白か黒かというふたつの思想をもって語られることがあまりに多い。だからといって、私がそのように思考することを辞められるほどの聖人でもないわけで、むしろそのふたつに支配されがちな人間であるということは、十分に理解している。特に、精神的に参っているときには、そのような判断しかできなくなって、どちらかに分類しなくては落ち着かない。

 

最近、『レ・ミゼラブル』『ダンサー・イン・ザ・ダーク』など他にもさまざまな映画を観た。ここで話すのはこのふたつについてなので、その他はまたの機会に。割愛する。

 

ジャンバルジャンは貧困に喘いだ姉とこどもを助けるためにパンを盗んだため逮捕され、ジャヴェール警部は法に支配されて自殺し、エポニーヌは愛のために青年を庇い撃たれ、ガヴローシュは仲間のために撃たれる。

 

レ・ミゼラブル』も『ダンサー・イン・ザ・ダーク』も所謂「暗い」映画である。それでも私にとってこのふたつの映画は希望だった。私のなかに眠っていた、忘れかけていた概念をハッと思い出させてくれるような映画だった。

 

それは誰も何も悪くない、ということ。

私はなにか悪いもの、すなわちマイナスな感情を呼び覚ますようなものに出会ったとき、その中身を確認せずに判断を下した。「悪だから」という大きな主語を使って理由を語った。「どうして悪なのか」を考えようとしなかったのだ。

 

ダンサー・イン・ザ・ダーク』では、視力を失いつつあるセルマが貯めた息子のための手術費を、信頼していた警察官に盗られる。しかし、その警察官も、妻の浪費癖に苦しんでいた。妻はなぜ、浪費癖があるのか。それは描かれていないけれど、なにか苦しいことがあって、それを浪費で発散しているのかもしれない。

 

これらの映画は、本当にやるせない。

さまざまな人間が死ぬし、辛いことがたくさん起こる。どうしてなのか、それは誰も悪くないからかもしれないと思った。

 

特定の人間に憎悪を向けたとき、その肥大した憎悪が自分のことさえも殺してしまうことがある。それほどの憎悪を人間に向けたことがあるかはわからないが、私はそれほどの強い気持ちを向けている人間がいる。これは憎悪と簡単に括れるようなものではなくて、もっと複雑に絡み合った負の感情なのだが、同時にそれはどうしようもないものであることに気が付いたとき、その負の感情は次第に自らのほうへ向かい自らを傷付けていた。

 

表面で語られる「悪い」人間を「悪い」人間たらしめたものは何なのか。

 

不登校のケースひとつとっても、いじめられているから、勉強についていけないから、不良だから……それぞれのコンテクストはまったく異なる。不良と呼ばれる人間が、なんの意味もなく不良なわけではない。深夜にバイクのクラクションを大きすぎるほど鳴らすのは、彼らの行き場のない自己主張を体現する方法なのかもしれない。

 

念のため書き記しておくが、これは「罪を犯す」ことを庇っているわけでもないし、「仕方がない」とも思わない。けれど、いままで、白か黒かというふたつの思考に囚われていた私が、もしかするとこの世の中には、誰も悪くない悲しいことがたくさんあるのかもしれないと、ぼんやり思ったこと、考えるようになったことで、すこし楽になったという小さな記録のようなものである。