水鏡文庫

Twitter→@Mizukagami100

盗まれたあの子

 

生きていてくれてよかった、精神科の主治医が4ヶ月ぶりにぼくに会って開口一番そう言った。ぼくは、両目から涙を垂らしていたことを、彼から差し出されたボックスティッシュによって知った。ぼくはずっと、だれかに存在を肯定されたかったのかもしれなかった。それを主治医は分かっていたのかいなかったのかは知らないけれど、ぼく、いやこれはまぎれもなく私だが、その場で崩れ落ちるようにして号泣していた。うれしくて、号泣することなんてそうそうないような気がする。

 

盗んだビニール傘を引き摺りながら、ぼくがついに世間になってしまったことをかなしみながらも、盗まれた物語と盗まれたあの子に思いを馳せていた。みずいろのカシャカシャしたウィンドウブレイカーは、みずいろのダッフルコートに変わって、ぼくにはなんにもなくなってしまったけれど、それでよかった。今日も、定時の電車に飛び乗った、しろいむくんだふとももでスーツの女の子が、休日にはピンクと黒を纏って、楽しそうに渋谷のスクランブル交差点を歩いているなんてことは、だれも知らなかった。うまく人間をやるために、世間に擬態して生きることが、それほど苦しくはなくなっていた。完全に世間に擬態すれば、それは苦しいだろうけれど、それぞれにとって譲れない何かを、大切にしていたら、案外世間だって怖くはない。あの子を奪った世間は、案外あの子が自分から奪われにいった世間なのかもしれなかった。

 

譲れない何かを忘れないで、私はリボンとピンクを譲れない。黒いリボンも案外かわいいのだ。ピンクのブラウスもピンクの糸のはいったツイードのスカートも、仕事で纏えるピンクは少ないけど、それでも、かわいくいるには十分だった。私はそれでよかった。

 

きらきらになれないなら、瞼だけでもきらきらになれたらいいな。きらきらしててね。

 

ベランダという場所が好きだ。家と外の境界線だから。家でもなく外でもない。家でもあり外でもある。ベランダで死んだ猫。ベランダに投げ出したぼく自身は、星空さえみえない。

 

今年もありがとうございました。これで、2020年の投稿は最後になります。このブログは何年かずっと続けていますが、これまで私ではないぼくの話をしていました。でも、今回、ぼくは私であるということがついに分かってしまいました。(うすうす分かっていた方もいたでしょうが)はっきり書いてしまった以上、もう隠すすべはありません。来年は、どのような投稿になるかは分かりませんが、またどうぞ、ぜひよろしくお願いいたします。