水鏡文庫

Twitter→@Mizukagami100

洗礼と誕生

はじめに

この文章にはアニメ『さらざんまい』の最終話までの内容を含みます。

 

4月からずっと彼を追いかけ続けていた。彼のしあわせをただただ、祈っていたのだった。でも彼は人々とのつながりを糧に、硬い卵の殻を破っていった。かつて、絶望に身をまかせていた彼はもう、たとえ私が彼の幸福を用意しなくても、生まれかわることができるのだ。私は、すこしの胸の痛みと別れを告げて、心から彼を祝福したいと思っている。ようやく私は気がついたのだ、彼に私自身を投影していたことに。

 

あまりのフィルムのまぶしさとみずいろに、未来を感じた。ただ、ひとつ分からないことがあった。少年刑務所からでてきた彼が、川に飛び込んだのが、はじめみたときに身投げのように思えて仕方なかったからだ。だけれども、その後のラストははじまりを予期させるものそのもので、戸惑ってしまった。

 

けれどいまは、彼のあの行為が、誕生のための洗礼だったのだと思えてならない。洗礼とは、新たな人生のはじまりを予感させるものだ。私は、この物語の「それでも」が、だいすきだ。それでも、それでも、それでも、切り離されても、未来を掴もうともがく、彼らの姿はうつくしくて、私には、はるかとおい、みずいろのように感じたけれども、私が流した涙は、たしかにみずいろだったのだ。

 

彼の人生はたしかに終わっているかもしれない。それがどうしたというのだ。それなら、はじめればいいのだ、一瞬の間でもこれまでのことはすべてきれいさっぱり忘れて、水のなかで生まれ変わるときがあったっていいじゃないか。ちょうど、私たちが羊水のなかから誕生するように、川に飛び込んだっていい。彼は、つながりを辿って、この世界に再び誕生したのだ。

 

暑い夏の日、プールを掃除していると、水をかけられ、かけ返し、結局びしょ濡れになってしまうような、そんな情景が、私のなかにある。みずいろは、あかるい。未来はたしかに、そこにあるのだ。

 

だけれども、明るいことばかりとは限らない。くるしみはたしかにそこにあるのだ。彼が少年刑務所に入ったのも、そのくるしみも、たしかにあるのだ。それでも、生きていかなくてはならない。

 

私には、絶望がお似合いだ。どこか罪を感じていた。けれど、それがどうした!と言ってくれる彼は、まぶしくて、私たち視聴者の人生をたしかに照らしてくれる。

 

死ぬつもりなど、これっぽちもない。ただ、新しい世界に出会うため、新たな私に出会うため、生まれ変われるのだ。ついに、幾原邦彦は卵の殻を破ったその先を描いて、私たちに贈ってくれた。

 

私は、きっと彼の存在をこの先も、ずっとこころのなかのぴかぴかした宝物として、たいせつにしまって生きていかなくてはならない。それがどうしたと言ってくれた彼を、久慈悠を、この先も愛している。

 

祝福はいつだってそばにある、ただ気がつけないでいるだけだよ。私たちは、もっとライトに誕生できる。いつだって生まれなおすことができるはずだから。

 

今年の夏は、久しぶりに海をみにいきたい。サンダルに砂が入ることなど気にせずに、水際まで走っていって、それから、かわいいお気に入りのワンピースを着たまま、ひと思いに飛び込んでしまいたい。濡れたっていい、新しい私の誕生なのだから。そこで、笑いかけてくれるあなたがいたら、文句なしだね。