水鏡文庫

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『ユーリ!!! on ICE』と出生家庭

 

先日『ユーリ!!! on ICE』についての記事【アニメ『ユーリ!!! on ICE』からみる「既存の枠組み」からの脱却 - 水鏡文庫】を執筆して、たくさんのRTや♡をいただき、本当に嬉しい限りです。ありがとうございます。

 

さて、今回は『ユーリ!!! on ICE』のキャラクターにスポットをあてて家族という呪縛、ユーリ・プリセツキー(15)と優子の心理的関係と距離について書いてみたい。先日の『ユーリ!!! on ICE』の記事で少々触れたが、筆者はある理由があって第3滑走のユーリ・プリセツキー(15)に異常なほど感情移入して私生活においても精神的に不調をきたした。そこで気になったのが、主人公である勝生勇利の憧れ西郡優子(人妻であり3人の娘を持つ)に対するユーリ・プリセツキー(15)の心理的変化だ。

 

その美貌でロシアの妖精と呼ばれているが、リンクから一歩降りればガラの悪いロシアンヤンキー。ヴィクトルと同門でありシニアデビューで世界一になると信じて疑わない野心家。フィギュアスケートで国からの援助を受けノービス時代から一家の大黒柱を勤める健気な一面もある。

(アニメ『ユーリ!!! on ICE』公式サイト「ユーリ・プリセツキー」の項より引用)

 

ユーリ・プリセツキーというキャラクターの紹介から見るに、家庭環境に何らかの問題を抱えていることが分かるだろう。8話現在で確認できたのは、彼が心を許し甘えられるのは祖父のみということだ。母親は彼のスケートを観に来られない、または観に来ない。

 

「じいちゃん、

また明日も一緒に練習来てくれる?

もっと上手に滑れるよ……

ママが来なくても僕、大丈夫だから……」

(第3滑走 幼少時代の回想シーンより)

 

本編で語られていないため、筆者の憶測だが、母親は病気で彼の練習に来ることができない可能性と、ネグレクトなど意図的に来ない可能性の2つが考えられる。

 

彼に与えられた課題であるアガペーはときに母性愛とも言い換えられる。見返りを求めない愛。つまり母親は本来子どもに対して見返りを求めるような愛を注ぐべきではないとも言えるのではないか。彼はアガペーを祖父から獲得することは出来ている。けれども、彼は幼くして家の大黒柱としてお金を稼がなくてはならないという透明な圧力のもとスケートをしてきた。好きだからスケートを自由にやらせてくれる勝生家との対比構造が出来上がっている。

 

幼い子どもが「良い子でなくてはならない」と思って生きるということは本当にせつない。本来「たとえ良い子になれなくても良い子でなくてもだいすき」と承認してくれる誰かが必要なのだ。子どもは本来、無条件で愛を受けるべき存在である。幾原邦彦のアニメ作品『輪るピングドラム』で多蕗桂樹というキャラクターの母親は彼を愛していたが、本当に愛していたのは彼ではなく彼の才能だった。ピアノが上手い彼を愛していただけで、彼自身を承認してくれる人間ではなかった。けれども彼は血縁関係には頼らない無条件の愛を注いでくれる少女 桃果に出会うことができる。それにより彼は救済されたのだ。(それにしても『輪るピングドラム』は素晴らしいアニメ作品なのでぜひ観てほしい、というか観ろ☆)

 

ユーリは勇利と異なり、スケートを好きという感情以前に「生きるため」にスケートをしているという印象を強く受ける。幼くして国の援助を受けながら、一家の大黒柱として生きる運命を背負った彼は勝たなくては家族を支えられない、生きられないという非常に大きくて透明な圧力に支配されて、身体ごと武器にしてまで勝とうとする。勝利に対して彼が異常なほどに貪欲なのはそのためだ。他のスケーターとはそこが大きく違う。

 

本来「たとえ良い子(=勝つ、お金を稼ぐ)でなくてもだいすき」と承認されて然るべきはずの子どもが、幼くしてそれを既知の事実として受け止めて行動しているということは、大変辛いことだ。

 

ユーリの祖父は確かに彼を可愛がっていて彼もそれを感じて懐いている。それは事実だ。けれども生きられなければ元も子もない。祖父だってユーリにお金を稼いで貰わなければならない立場にある人間だし、悲しいことに彼にその運命を背負わせている側の人間なのだ。

 

そんなユーリにとって、勝敗に関わらず彼を承認する優子という人間は非常に珍しかったのではないか。ノービス時代から「勝って家族を支えなくてはならない」と考え「生きるため」にスケートをしてきたのだ。優子はユーリがそこに存在するだけで鼻血を出して喜ぶし、応援する。彼が生きているという事実を承認している。その存在自体を承認しているのだ。ユーリの祖父が彼に注いでいるのは確かに愛である。だが、それは「生きていくため」には仕方がないのだが、ある意味での「条件付きの愛」でしかなかった。お金を稼いで「生きるため」に生命を燃やしながらスケートをしてきたユーリは、優子から与えられる「無条件の愛」にひどく珍しい不思議な感覚を抱きつつも、はじめて勝たなくても何故か喜んでくれる、存在を承認してくれる人間に出会い、優子に母性を見出したのではないだろうか。

 

(ユーリの自尊心や他人を寄せ付けないような行動は彼の才能に依るものでももちろんあるのだろうが、それだけではなくある意味で自分を護ろうとしている心理が働いているのかもしれない。事実、そういったケースはいくつもあるからだ。人間が発する言葉には自らに対する言い聞かせという可能性がある)

 

存在自体を承認された愛を既に獲得したうえで好きなスケートを続けている主人公 勇利と勝利してお金を稼ぎ家族を支え生きるためにスケートを続けているユーリは確かに極端なほど正反対だ。原作者が彼らに同じ名前を与えたことは意図的であろう。その他にも、彼らはお互いに自らの持っていないものを持っている。非常にわかりやすい対比構造だ。

 

人間を救済するのが、必ずしも出生家庭の人間とは限らない。むしろ、家庭という極めて狭い世界に閉じ込められることもある。本来、子どもには「たとえ良い子でなくてもだいすき」と承認してくれる存在が必要なのに、それを獲得できない子どもが世界中にたくさんいる。その子どもは無意識に承認を求めるようになる。必死に「だいすき」と褒めてもらうために「良い子」になろうとする。なんて辛いのだろう。そんな時には「良い子になんてならなくても生きていてくれるだけでだいすき」と払拭してくれる人間を出生家庭から脱出して見つけることができれば少しでも救済される。母性を注いでくれる人間が必ずしも血の繋がった家族ではないということを知っていてほしい。家族という呪縛に囚われていることもある。家族があかるくあたたかいものでなくてはならないと誰も定義することはできない。

 

私も母親からの「だいすき」が欲しくて「良い子」であり続けようと努力してきた。でも母親はいつまでたっても私を「だいすき」とは承認しない。筆者の弟も母親からの「だいすき」が欲しくて必死に「良い子」になる努力をしている。存在を認めてもらえない家庭なんて、地獄だ。存在を承認されたことのない子どもが、何も知らない幼いうちは「だいすき」のために頑張っていられるかもしれないが、じきに虚無感に襲われるだろう。私自身、ユーリは優子と出会うことができて本当によかったと思っている。

 

これからの物語の展開に更なる期待をこめてこのあたりで筆をおこうと思う。最後まで読んでくださいましてありがとうございました。出生家庭の呪縛から脱すること、親族の精神的殺害は決して悪ではない。私も願わくば知らない誰かの救世主になれたのなら幸せです。