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水鏡文庫

好きなことを好きなだけゆるゆる綴るブログ

アニメ『ユーリ!!! on ICE』からみる「既存の枠組み」からの脱却

 

2016年9月某日、私ははじめてこのアニメのディザーPVを目にした。元来フィギュアスケートの大ファンであり、作画オタク(なんて烏滸がましくて言えないただの趣味レベルです……)である筆者にとって大変な衝撃であった。「くそやばい、オシャレじゃん……」なこのアニメ、ただひとつ気になる点があったのだ。

 

所謂『腐向け』と呼ばれるような描写が多いということである。だが、筆者はさほど気にしなかった。なぜなら、男子フィギュアスケート界には同性愛者が多いという事実を既に知っていたからである。

 

「どうせ水曜日の夜は『文豪ストレイドッグス』で起きてるんだし、そのまま『ユーリ!!!』も観てみようかな」なんて軽い気持ちで観はじめたのが、この有様だ……

 

余談だが、筆者は第3滑走でユーリ・プリセツキー(15)の幼少時代の回想シーンやロシアに自ら帰るシーンで、精神状態が酷くなり、彼に異常なほど感情移入してしまっていた。それについては、私の過去の記事である【森鷗外『舞姫』の悲劇は豊太郎の母親によってもたらされた? 〜マトリサイドと青年期の心理学〜 - 水鏡文庫】から、なんとなく察していただきたい。

 

ユーリ!!! on ICE』と 愛

 

筆者は、『ユーリ!!!』をBLでないと否定したいという気持ちはさらさらない。むしろ、『ユーリ!!!』はBLだ!と声高らかに訴えていきたいと思っている。だが、『腐向け』や『腐媚び』という意見をみるとあまりの悲しみに、iPhoneが何台あっても足りないほどである。(こんなことを偉そうに語ってこそいるが、実は筆者自身が過去にこのアニメの描写に対して「やりすぎ」などと述べていたので、人のことを言えやしないのです……)

 

そこで、『腐向け』と『BL』という両者間の極めて曖昧な定義について改めて考え直す必要があるのではないだろうか。

 

まず、『腐向け』や『百合』や『腐女子』という言葉は、二次創作物における公式でカップル描写のない男性または女性キャラクターをくっつけて楽しむという点で、ある意味で自嘲的であり、自虐的な意味を持って使われる場合が多い。(腐ィルターなどといった表現を使用することも、そのひとつであるといえるかもしれない……)どちらかといえば、ネガティヴな表現だと感じている。

だが、『BL』や『GL』という言葉は決してネガティヴなものではないはずだ。なぜなら、『BL』や『GL』という言葉自体には、『男性同士の愛』,『女性同士の愛』という意味しか含んでいないからである。

『腐向け』『百合』が苦手だということであるのならば、たんにそれは、公式では描写されていない男性または女性キャラクター同士をカップルにするという二次創作物が苦手だということになるのである。

二次創作物上で注意喚起を必要とする理由が、公式では描写されていないという点にあるのならば、公式では描写されていない男女キャラクターはどうなのだろう?

 

確かに、二次創作は非公式なものであるため、注意喚起を必要とするということは十分に理解できるが、それならば男女キャラクターであっても扱いは同じでしかるべきはずである。

 

ここでふたつ、

素晴らしい記事を紹介させていただきたい。

 

今期大人気アニメ ユーリ!!! on ICE で ヴィクトルと勇利がキスをしたことの意義 - inato備忘録

 

『ユーリ!!! on ICE』と「愛の再定義」 - 小夜倉庫

 

inato氏、長谷川さより氏はともに『ユーリ!!!』の愛について述べている。そして、私自身も自由な愛の形について述べるために、久しぶりにこのブログを更新することにした。

 

「BL要素があるなんて聞いてない」

 

このような意見をしばしば目にしたが、やはりこれは日本においてまだまだ同性愛が受け入れられていないという現実を端的に表したものであると感じた。いままでたくさんのスポーツを舞台にしたアニメや漫画において、男女の恋愛描写というものは普通にあった。それでも「男女の恋愛描写があるなんて聞いてない」とは誰も言わなかった。渋谷区が同性愛結婚を認めると発表したところで、やはり人々の考えはそう簡単に変わるものではないのだ。だけれども、考えを変えてほしいなどとは思っていない。否定しないでほしい、それだけだと思う。

 

「透明な枠組み」からの脱却

 

ユーリ!!! on ICE』第7滑走において、筆者のなかで非常に興味深い展開があった。いや、筆者だけではない。第7滑走を視聴していたであろう全世界の人間が過呼吸を起こし、あの世行きになるほどの大惨事であった。

 

……キスした。

 

本当にこれである。でも、私はここまで観ていてもうすでに勇利の成長に号泣していたので、一瞬 息が止まった。第7滑走は大変話題となり、しばらくの間Twitterのトレンドに居座り続けていた。

 

(キスをしていないという解釈も、もちろんあると思うのですが、ここではキスをしたこと、それを描写した制作側の意図を図ろうとしたものですので、解釈が異なる、または受け入れられられないという場合の閲覧を推奨いたしません)

 

愛の定義は非常に曖昧であるが、曖昧であるからこその“よさ”も存在する。

勇利は作中で「ぼくの愛」について語る。勇利は「ぼくの愛」を「自分から繋ぎとめたいと思った」と定義している。「地元に対する微妙な気持ち」もひっくるめて「ぼくの愛」として定義している。ユーリは作中で「無償の愛」を「じいちゃん」に対する気持ちだと定義している。

それが「愛」の“よさ”だ。

 

第7滑走での「キス」は「自由な愛の表現」の象徴であると考える。勇利の素晴らしい演技に対するヴィクトルなりの最上級の愛の表現であり、同時にそれは非常に衝動的なものである。自由に生きている、自由に表現している。それが、あの形で表されたのではないか。

 

また、『ユーリ!!!』は非常にやさしいアヴァンギャルドな世界だ。だれも、彼らの「愛の定義」を否定しない。「愛の定義」を否定するということは同時に「その人間自身」を否定することになりかねないと私は思う。氷上の芸術でもある、フィギュアスケートという競技は自由な「愛の定義」を表現するのに相応しい。

 

それにしても、通常のアニメ作品で同性同士のキスシーンを描写するという行為は非常に革命的なのではないかとさえ思う。現実の世界には男女の愛も男同士の愛も女同士の愛も、もちろんそれ以外の愛だって、たくさん散らばっているわけだし、本来は誰もそれを定義する権利はないはずだ。それを既存の「透明な枠組み」に縛られずに自由に表現したという点で『ユーリ!!!』は未来のアニメ作品における描写にも、大きな影響を与えるものとなるのではなかろうかと期待したい。

 

受け容れるということ

 

少し話は逸れるかもしれないが、アヴァンギャルドでやさしい世界という点で、共通していると個人的に感じたアニメ作品についてふたつほど言及したいと思う。『ユリ熊嵐』については、既に長谷川さより氏の記事で紹介されているため、割愛する。

 

 

これも言わずもがな大人気なシリーズである。筆者の友人が好きなので、それをきっかけに興味を持ち、毎週 楽しく視聴している。刀剣を男士に擬人化したという大変斬新なアイデアで、日本史などに興味を持つきっかけになりそうな良い作品である。私がここで取り上げたいのは、様々なキャラクターの「個性」が極めて普通のものとして受け容れられているという点である。少女のような容貌をしたキャラクターもいるし、女形の設定のキャラクターもいる。(それらの設定はその刀剣の持ち主であった人物の趣味だとかそれらをどう扱っていたかなどに拠るものである)だが、誰もそれを否定したり、変だと言ったりはしない。受け容れているのだ。皆それぞれ「自らの定義」なるものを所有していて、それを受け容れているからこそ生まれる、ある意味でこれも暖かな愛に包まれた作品だと考えている。

 

 

筆者が大好きで、そしてこの先も大切にしていきたい作品のひとつである。『ユリ熊嵐』の幾原邦彦が関わった作品だ。彼は非常に革命的で前衛的な演出で注目を集めているアニメーターであり、『美少女戦士セーラームーン』でもキラリと光る個性が眩しい。まず、この作品は「女の子は王子様の助けを待つ弱い存在」だという「既存の透明な枠組み」からの脱却に成功している。(近年のディズニー作品でも現れているが、ここでは触れないものとする)これは、幾原邦彦作品全体に流れている気もするので、『セーラームーン』が特別だというわけではないのだが。(アニメ『少女革命ウテナ』などの作品にも大いに現れている)ここでやはり述べたいのは、セーラーウラヌスセーラーネプチューンの関係性である。ーラーウラヌスはセーラーネプチューンと「恋人」なのかと尋ねられたとき「それ以上」だという答えを出した。その他の描写にも現れているように、彼らの「愛の定義」には「既存の透明な枠組み」には決して縛られない自由さがある。宇宙のように深く、そして誰にもわからない彼らなりの「愛の定義」がそこに確かに存在しているのだ。

 

おわりに

 

この文章を通して、私が伝えたかったことはさほど大したことでもない。ただ、『ユーリ!!!』第7滑走における男性同士のキスシーンが与えた影響について考えているうちに、「愛」とはもっと自由であってもよいのではないかと思ったのみである。「愛」は私たち人間の生きる力となり、私たちを救済する。その「愛」をほかの人間が否定することはできない。例え、その「愛」や「人生」が「既存の透明な枠組み」から外れていたとしても、その人間を生かす「愛」はただひとつの「愛」のみなのだから。

 

ユーリ!!! on ICE』は「既存の透明な枠組み」には決して縛られない「愛」の描き方をしている。男女の愛情を観て感動するように、男性同士の愛情や女性同士の愛情を描いた作品だってあってもいいのではないか。それはみんな彼らの「愛」であり生きていくために必要なものなのではないかな、と強く感じる。

 

勇利が生きていくために必要な「愛」、ユーリが生きていくために必要な「愛」、ヴィクトルが生きていくために必要な「愛」はすべて違う「定義」のもとに成立している。それを氷上でいかにうまく晶華させるか。つまり彼らにとっての「生命」なのである。

 

長くなりましたが、最後まで読んでいただきまして本当にありがとうございました。あくまでこれは個人の意見にも満たない戯言ですが、何か少しでも感じてくださったのならば、この上なき幸せです。私は持病など生まれ持ったコンテクストが周囲とは違っていて、幼いころから私はそれを恥ずべきことだと考えて、ネガティヴに捉えていました。その結果、小学校から症状は出ていましたが、青年期になり、精神疾患と診断されました。現在も、持病と精神疾患と戦いながら、私なりの「愛の定義」つまり「生きる意味」を少しでもいいから見つけようともがいています。

 

ここまで読んでいただき、本当にありがとうございました。皆さんの素敵な「愛の定義」がたくさん見つかりますように。

 

新しい記事も書きました、ユーリ・プリセツキーについてです。こちらもぜひ。

アニメ『ユーリ!!! on ICE』と出生家庭 - 水鏡文庫

 

(2016年 11月20日 投稿)