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水鏡文庫

好きなことを好きなだけゆるゆる綴るブログ

森鷗外『舞姫』の悲劇は豊太郎の母親によってもたらされた? 〜マトリサイドと青年期の心理学〜

文学論

みなさんごきげんよう。水鏡です。

突然ですが、マトリサイドとは聞きなれない言葉だと思いませんか?

もちろん、私もはじめからこの言葉を知っていたわけではありませんでした。けれど、 Twitterで仲良くしていただいているあるフォロワーさんがこの言葉を使って素晴らしいブログ(http://mortal-morgue.hatenablog.com/entry/2016/02/12/125224)を書かれていたことに感銘を受けまして、それが考えてみるきっかけとなったのです。私はプリキュアにすごく詳しい人間ではないのですが、とても心揺さぶられる文章でした。そうして意外にも、マトリサイドという状況は世界にも私や周囲の人間の心の中にもたくさん転がっていることも分かりました。みなさんの心の中にもきっと存在しうるのではないでしょうか?




マトリサイド - Matricide
【名】
《殺人》母親殺し
発音mǽtrisàid、分節mat・ri・cide




………ど、どうでしょうか?笑

母親殺し……?もちろん、私にだって母親を殺すことなんて到底できませんし、ひと昔前までは親を殺すことは無条件で最大の悪だと考えられていましたよね。

そう!ここでは行為としてのマトリサイドではなく文脈つまりコンテクストとしてのマトリサイドを考察していきたいと思います。


ここで扱うマトリサイドとは、事実としての殺しではありません。あくまでも、ひとりの人間として生きるために大切な営みとして、ひとつのメタファーとして、そう捉えていっていただきたく思います。ともすれば、私のただの自己満足とも自己解決とも呼べる意見になるのかもしれません。また、プロパガンダ等の意図はいっさいございません。



***



☆まずはじめに

マトリサイドのメタファーとは「思春期の自立」だと私は捉えている。アメリカの発達心理学エリクソンの提唱したライフサイクル論を基に考えてみたい。


☆森鷗外の『舞姫』について

あらすじを軽く触っておこう。

主人公の豊太郎は幼少の頃から父親がおらず、母親ひとりに育てられ、学業の成績は頗る良く、大変優秀な公務員となった。そんな豊太郎の上司は、彼をドイツに留学させることを決意する。(ちなみに物語はこのドイツ留学の帰りの船の中での描写からはじまる)そこで出会った金髪の美しい舞姫のエリスと恋に落ちるが、豊太郎と舞姫エリスの関係は遠く離れた日本にまで知れ渡り、それを知った母親は自殺し、上司には見放されてしまう。生活に困った豊太郎は、新聞社で働きながらも、エリスとともに"憂きが中にも楽しき月日を送りぬ"。それをきっかけに、豊太郎はエリスとの関係を深めていき、ついに彼女を妊娠させてしまう。そこで、相沢という豊太郎の友人が彼に手を貸す助っ人として登場する。しかしながら、結局のところ豊太郎は、妊娠したうえにパラノイアを拗らせたエリスをドイツに残し、日本に帰国する。こんな具合だ。


この森鷗外の『舞姫』という小説は高校生の現代文の教科書のなかでも扱われている、超 名作文学だ。だが、たいていの国語教育の現場に於いて豊太郎が批判される立場に圧倒的におかれやすい。私も、高校3年生の頃に現代文でこの物語を既習したのだが、どうも教師や周囲の友人の考え方に納得することができず(もちろん、教師の立場に於いては倫理観の問題もあるのかもしれないのだが)にひとりもやもやしていたのを覚えている。特に、筆者は女子校だったため、豊太郎に対する批判ないしブーイングはものすごく多かった。

豊太郎は、母親の期待という強すぎる圧力をたったひとりで受けてきたわけで、他人の期待に応えるために、自分を偽り、他人に尽くすことを覚えたのだ。それゆえ、上司にも気に入られたのであろうし、母親もそんな豊太郎がたいへんな自慢であったのだろう。


通常、思春期とは、ライフサイクル論から見ると親の言うことにただひたすら盲目的に従ってきた幼少期とは異なり徐々に懐疑心を孕むようになるはずなのだ。


しかし、豊太郎にはそれが一切ない。気持ちが悪いほどに、ない。前半部分の豊太郎には人間味というものがまったくと言っても過言ではないほどにないのである。


舞姫エリスとの関係を通告された豊太郎は、上司に見放され、母親は遺書を残して自殺してしまう。


ここに注目してほしい。


母親というものは、本来無条件で子を愛すべき存在である。ちょうど、イエスキリストを包み込む聖母マリアのように。

しかし、この母親は、あたかも息子 豊太郎を大切にする良い母親のような顔をして、自らの思い通りに息子を操作するということを平気でしているのだ。自分の思い通りのお人形にならなかった豊太郎に失望し、自分の名誉のためだけに自殺したと解釈することも可能である。自らの息子が、舞姫と関係を持っていると知った母親が自殺するのは、自らの息子(の成し遂げた偉業)をたったひとつの誇りとして生きてきた母親の自尊心がへし折られたからだと十分に考えられるであろう。


しかしながら、おかしいとは思わないだろうか?


母親が子を育てるということには、希望と後悔が共に存在している。母親が自らの子に対して希望を見いだすということは全く以って悪いことではない。だが、母親自身が、子と同一化しようとしてはいけない。自らの低い自尊心を、子に投影してはいけない。自らの満足のために子がいるのだろうか?自らの満足のために、子を育て、こんなにも、私の子はいい子(=私はいい子)と思いたがる。


実のところ、私の母親もそれである。豊太郎がマトリサイド未満であるように、私もまたマトリサイド未満なのだ。私もいっさい、反抗期がなかった。母親を盲目的に信仰し母親の判断にびくびくと怯えながら生きている。マトリサイドをしてやる、と強くこころに決めながらも潜在的に母親に気に入られるような行動をとってしまう。身動きがとれないのだ。


☆ここで少しだけ技巧について触れておこう

舞姫』には所謂「ダブルプロット」と呼ばれる、話の中に話が挿入されているタイプの技巧が使われている小説である。類似的または対照的な物語が互いに効果を高め合うような構造となっている。太宰治の『人間失格』や漱石の『こころ』もそれの代表例と言えるだろう。


閑話休題


物語は進み……相沢の助言により豊太郎は、エリスをドイツに残し、立身出世を取ることを決意する。

"さらぬだにおぼつかなきは我が身の行く末なるに、もしまことなりせば如何にせまし"

舞姫』を読んでいると、豊太郎はいっさい自分の人生に於いて大切なことを、ひとりで選択できていないことが分かるだろう。相沢の助言により、エリスとの関係を断つことにしたこともまた然りだが。それにしても……なんとも、このラストシーンは悲しい。


"我が豊太郎ぬし、かくまでに我がをば欺きたまひしか"


エリスの悲痛なまでの叫びである。



***




マトリサイドとは、人間の精神的成長に於いて重要なものであると考える。大人になるにはマトリサイドをしなくてはならない。マトリサイドできなかった豊太郎は没落した。おまけに、マトリサイドするきっかけまで母親に奪われた。この物語の悲劇性は、豊太郎はもうマトリサイドになれないというところにあると考える。死ぬまで母親に囚われ続けるのだ。マトリサイドできないままに母親に自殺されてしまったからだ。それは母親の、時に凶器にも成り得る期待という名の圧力に他ならない。マトリサイドをし損ねた豊太郎は"所動的、機械的"人間に成り果てた。所詮、この母親は豊太郎の傀儡師でしかない。自分を息子に投影して、自らの成し得なかった偉業をやってのけた息子に対して、痛々しいまでに肥大した自尊心と感情を抱え、依存していたのだ。

ドイツ留学により、母親という監獄から解放された豊太郎は、実学より虚学を好んでいる"我ならぬ我"を発見する。もっと早くにマトリサイドさえできていれば、エリスとの悲劇は生まれなかった。私はそう考えている。


☆ちなみに

これの対義として、太宰治の『人間失格』とヘッセの『車輪の下』がある。あるいは、志賀直哉の多くの作品にそれが表れている。所謂、父親殺しである。これはまたの機会にお話しするとしましょう。


☆最後に

母親によってもたらされる人間形成や人格、認知の歪みによる苦しみは計り知れない。母親や家族というものがあかるくあたたかいものだ、むしろそうでなくてはならないという考えを押しつけてはならない。お金持ちの家に生まれた子どもがかならずしも幸せとは限らない。大切に育てられた箱入り娘がまっすぐに育つとは限らない。今、私は教育学に興味を持っており、児童の心理的発達について研究をしている。都内のどこかに母親という監獄に苦しみながら、自らの研究とも言える研究をしている女子大生がいるのだ。これを少しでも目にしてくださったあなたや、あなたの周りの人間だって、もしかするとマトリサイドできずにもがきくるしんでいるマトリサイド未満かもしれない。マトリサイド予備軍かもしれない。少しでもこの文章が誰かの支えとなり希望となるのならば私は幸いです。うつくしい世界をひとりでみてみたい。母親というフィルターにかけられたままに世界をみつめて、汚い世界に絶望しないでください。私もまだまだ闘い続けるだろうし、これからもそれらについて書き綴っていきたいと思っています。ちょうど私が長谷川さより氏のブログに勇気をもらったようにどこかの小さなマトリサイド予備軍のもとに届いてくれたのならこの上なく幸せです。

そしてこの文章を、書くに至るきっかけと勇気をくれた長谷川さより氏に捧げます。



Twitter→@Mizukagami100


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